ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.12

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.12
ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.12

写真の考察に引き続き、
その延長線上に、今度はドキュメンタリー映画についての考察でもするとしよう。
ドキュメンタリーとは、文字通り単なる事象の記録でもなければ
躍動的写真の連続体というわけでもない。
また、あるがままに晒された現実でもない。
それは多くのフィクショナルな劇映画となんら変わることはない、
映画としての、魔法や方法論を駆使した主張なのだ。
それは被写体のものであり、同時に、
作家自身がかかえる意識の反映かもしれない。
目の前で見せられる世界が純粋で単純な息吹ばかりではなく
立派に作り込まれた豊かな劇空間でさえあるのだ。

時に、大いなる悪意さえ恐れず、大胆に忍ばせながら、
映像は、立派に虚構的世界を構築する。
それは、テレビなどで叫ばれる、「やらせ」というような
低俗なものから、巧妙に仕組まれた演出に至るまで、
作り手とカメラの向こうにある現実との巧みな駆け引きでもある。
それは今から100年も前のことだ。
ドキュメンタリー映画の父と称されるロバート・フラハティによる
最初の作品『極北の怪異(極北のナヌーク) 』を思い出してみよう。

そこに映し出されたイヌイットの文化、風習の記録だと勘違いする人は多い。
確かに、それは彼らの生活なり、人間味にふれ感動したフラハティ自身が
長い年月、生活を共にし、実際の目を通して追った時間の刻印、
すなわち“記録”であることは間違いない。
ところが、そこにはフラハティ自身によって書き換えられた
映画としてのドキュメントとしての虚構性がすでにあらわにある。
主人公の名前や家族はあらかじめ用意された演出であり、
彼らは用意された様式のセットに住まう登場人物たちである。
当時の文明の利器の恩恵を十分に受けながらも、
あたかも伝統文化に固執するかのように、映し出された民族としての生活様式は
作家フラハティの演出の意図によって再構築された
全くもって創造的映像文化なのだ。

こうして構築された映像が、単なる偶然で純粋な記録であるはずもない。
とは言え、それはマスメディアの意図的な情報操作や
「やらせ」などとは一線を引くものである。
明らかな作家性と、カメラの向こうにある、
必然的、あるいは恣意的なまでのフィクション空間が入り混ざって
映像は、事実を越えた物語を歩き始めるのである。
そんなドキュメンタリー映画について、通常の劇映画同様、
言葉は映像ほどに雄弁になり得はしないが、
それでも、映画や映像といった動的な示唆に対しては、
できる限り、誠実に対峙してみたいと思う。
そう対峙するより手立てはないのだという思いに支えられながら、
その魅力について、ふれてみたい。

私を突き刺す映画、あるいは魅入られしドキュメントへの眼差しへの考察

  1. 悪意と悔いを秘めた志しと眼差し・・・佐藤真『阿賀に生きる』について
  2. 臨死の守りかメメントモリか、賢者の凝視はかく語りき・・・フレデリック・ワイズマン『臨死』について
  3. シナリオ欠きは映画をめざす・・・諏訪敦彦『2/デュオ』をめぐって
  4. 永遠の“アソビゴコロ”でココロをハロウ・・・アニエス・ヴァルダ『顔たち、ところどころ』をめぐって
  5. 魂の戦士たちと共に、終わらない夢を語ろう・・・フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』をめぐって
  6. 闇と光に見るイメージの解体、あるいはイマージュの懐胎・・・べドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』をめぐって
  7. 失われた時を求めて、海と猫と精霊たちのいる港町にて・・・想田和弘『港町』をめぐって
  8. 女は子宮で、男はレンズで、禁断の一線を越える記憶・・・原一男『極私的エロス 恋歌1974』をめぐって
  9. 精神女刻印。見守る力は愛の力・・・サンドリーヌ・ボネール『私の名はサビーヌ』をめぐって
  10. 十年刻みの美の秘密・・・ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』をめぐって
  11. ユーはトウキョウに何をみたの?・・・ヴィム・ヴェンダース『東京画』をめぐって
  12. 記録から記憶へ、1000年の時空を超える壮大な歴史絵巻に乾杯を・・・小川紳介『1000年刻みの日時計 牧野村物語』をめぐって
  13. 猫とフクロウを愛した映像のエクリエーターに太陽の微笑みを・・・クリス・マイケル『サン・ソレイユ』をめぐって

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