悪・あ描き

An idea is a point of departure and no more. As soon as you elaborate it, it becomes transformed by thought.

アイデアは出発点以上のものではない。アイデアが出たあとは、思考し形をつくっていくんだ。

パブロ・ピカソ

お絵かきギャラリー

絵を描くには理屈はいらぬ

三つ上の姉は同じ小学校に通い、表彰されるぐらいに絵が上手だった。それに比べて弟は・・・、とはよく耳にした言葉だった。小さい頃から絵なんぞ上手く描けためしがなかった。下手くそにもほどがあったし、才能のなどからきしなかった。図画・工作(美術などとは呼ばれていなかった)の時間は、実に退屈極まりなかったし、そこには色音痴、対象物がうまく描写できないというコンプレックスがあった。だから自分が好き好んで絵を描くなどということは、夢夢考えもしなかった。ところが、あるとき、大人になって、なぜだか急に絵が描きたくなった。絵の方で勝手に手招きをするのだ。絵を鑑賞するという楽しみは、幸い、知性の向上とともに育まれていったようで、知らず知らずに、その素養的なもののある部分が刺激され、磨かれていたのかもしれない。

よくよく考えれば、絵を上手くなろうとして努力したことなんかなかったし、そこに活路を見いだしてやろうという野心や発想が起きようもなかったわけだから、藤田嗣治や黒田清輝などが憑依しない限り、そんな嘘みたいに、絵がひとりでに上手になる必然性がないのは当然だ。ところが、いつだったか、絵は上手くなくてもいい、絵は楽しむものという概念が、優しく吹き込まれて、それこそ、それならまあ自分だってまだ絵を嗜むぐらいの余地はあるかもしれない、と思った。紙とシャーペン、そして色鉛筆というアナログな道具構成で、まずは手当たり次第に白地を埋め始めた。埋め始めたといえば、たんなる擲り書きのようなものだが、なにしろ、描く対象が思い浮かばなかった。

そこではたと気づいたのは、自分はもともとなにかをじっくり観察してそれに似せて再現するという基本ができなかったのだ。絵を志すものたちが最初に通る道は、いかに目の前の対象物をリアルに絵に移し替えるか、つまりはデッサンである。これは後付けの発想だが、目の前にある事象をそのまま、似せて描写するのであれば、それこそ写真でいいのだと、自分はそう考えていた。見方によれば、単なる負け惜しみだ。素描力こそは絵を描く基本だということには異論はない。が、自分は運良くその呪縛から逃れ、自由を獲得した。今思えばそれが功を奏した。自由、すなわち、上手下手を離れ、描くという行為に身を任せることができた。不思議なもので、毎日ひたすらに紙に向き合って、手を動かしていれば、次第に形が現れる。楽しくなる。それが慣れになり、循環し、そのうちに熟練となる。

しかし、である。それは果たして自分が意図して生み出したものかどうかまではよくわからない。確かに自分の手から生まれ落ちたものだが、それは自分を超えた時空からのささやきを描写しただけなのかもしれないのである。それこそは落書きの域を超えず、メモにすぎない。後付けて意味を考えることもあれば、思い浮かんだものを形にする。誇るようなものは何もないが、そこには絵を描くという歓喜だけは見て取れる。色や形の楽園そのものであり、自身がアーティストと呼びうる領域に知らず知らず、踏み出していた貴重な体験と呼んでもいいのかも知れない。

WHY DRAW?

人はなぜ、絵を描くのか?
描く、でなければ何のか?
魂の発露なのか啓示なのか
それとも単なる戯れだろうか?

平面の無次元に伸びる線
そして彩られる形、埋め尽くされる空間
人間の秘められた想いがそこかしこ
嬉々として現れる瞬間を見届ける

それはいつもそこにある
こちらが何も考えずとも
言葉を水のようにすり抜ける線があり
色彩の洪水に身を任せるだけ

結局私は絵に取り憑かれ
魅入られて、その意のままになる
手は従順なしもべに過ぎず
単に行為は処理され瞳は目撃者となる

しかし
私はまだ白い空間を放置するまでの高みに達してはいない
無への抵抗 虚無からの解放
もはや無限の空間に放り出された赤ん坊が
成長をやめたのだとは思いたくなどないのだ

それが生きる糧として繰り返されるだけ
そして今と変わらぬ永遠がどこまでも続くだろう