シウルレアリスム

シウルレアリスム
シウルレアリスム

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象 (オートマティスム) であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」

シウルギャラリー

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黒ベタベース

本質からずれたところに、あえてそこを強いる絵

一風変わった物事に対して、それってシュールだわぁなどと、日頃認知されている言葉シュール。その語源をいったいどのぐらいの人が知っているだろうか。シュルレアリスムそのものは、美術を中心として知られたひとつの運動であり、形態であるぐらいならある程度行き渡っているとおりである。元はと言えば、二十世紀初頭、ピカソ、コクトー、サティーら、当時の先鋭的アーティスト達が集まって繰り広げられた、最初の総合芸術スペクタクルであるバレエ「パラード」に対し、詩人アポリネールが「新しい純粋な表現」として放った造語なのだ。のちにブルトン先生が、独自に解釈し、思想化して『シュルレアリスム宣言」などと大義を銘打った歴史がある。そのシュルレアリスムそのものからは随分影響を受けてきたし、今なお好きな表現もいろいろとある。
その反面、何か近寄りがたいようなものもあったりする。シュールだからと、じゅっぱひとからげにするには無理があるし、そもそも定義じたいが難しいものがシュルレアリスムであったりするのだ。だから、必ずしも全面的に支持したい概念でもないと言うことを、あらかじめ言っておきたいのである。

ここに掲げる絵は、確かにシュールな側面を持っているし、まずもってオートマティスムの洗練を浴びており、ほぼ自動手記に乗じて現れた脳内イメージの具現化でもある。だからこそ、シュルレアリスムの影響を真っ向から否定はしないのだが、そんな意識をもって描いたわけではないのだ。なので、これをどう解釈してよいものか、当人すらわからないのである。

このサイトでの位置づけは、先に掲げた『AFTERNOON OPIUM』のカラー版である。同じように、こちらは色鉛筆で一気に描き上げた衝動的な線に、色彩を施していることもあって、随分印象は異なって見えるかもしれないが、コンセプトはほぼ同じものである。それが昼か夜か、程度の違いである。ただ、色があるなしだけで世界が変わるという発見は新鮮だ。そして何より、今見渡せば、確かにシュールな絵に仕上がっているのは間違いない。だからといって、これはシュルレアリスムの絵ですよね? などと言われるとちょっと面食らってしまうのは、今説明したとおりである。自覚がないのである。

ミロやクレー、カンディンスキー、そのほかゾンネンシュターンでもデビュッフェでもいいのが、直接的影響下のもとに、真似をして描いたわけではないにせよ、同じような芳香性を嗅ぎ取ってもらえるのは、先人たちへの敬意を含めても、光栄なことではある。かと言って比肩しうるものでもないのだ。これはこれ、あれはあれ。いつものごとく、ジャンル付や定義付にはとんと興味の薄いところを強調したいだけだが、と言って、どう捉えるかは鑑賞者の自由であり、こちらの管理するところではない。

そんなイラストを掲げておいて、アンチテーゼのように「シウルレアリスム」と名付けてみた。そう、あえてあなた、鑑賞者側に何かを“強いる”のだとすれば、この絵を特定のイメージを持ってみないでほしいということだけである。無論、文字通りの押し付けではなく、遊びとして、一つの縛りとして、シュルレアリスム以外の、何か新たなイメージを想起してみていただければ幸いな絵として、ここに展示してみた。まあ、一枚一枚の絵に、自分でさえも意味は見出せないし、特に何をイメージして描いたのかさえも判然としないものばかりだから、それを大衆に投げてみて、勝手にイメージしろと言って、返えされた反応にあらたに反論するというのは、どうみてもお門違いだと重々承知している。でも、やっぱりこれってシュールですよね、シュルレアリスムの影響下にあるのは間違いないですね、などと言われてしまうと、やはり残念な気がしてしまう、というのが、当事者の正直な気持ちである。

ただし、そう言うイメージしか与えられないのだとしたら、それはそれでいっこうに構わないし、その意味では、何かを強いる絵と言う、ちょっとばかし意地悪な縛りを付与しておくことが自分にとっての精一杯の抵抗なのだ。しかし、いったいなんの抵抗だろうか? そこには遊び心はあっても、絵の本質ではないことだけは明確なのだ。