PHOTOGRAPHY

たかが写真、されど写真に言葉をそえる

そこに写り込んだイメージ以上に、到底説得力のあるとは思えない的確な言葉を、そこに挟めうるなどと考えている訳ではない。にもかかわらず、あえて言葉に固執するには理由がある。写真がここまで幅を利かせている時代だからこそ、写真というものがそれこそ多種多様、千差万別で量産され、人類の間で共通言語となり得ていると理解するからこそ、あえてそこに言葉そのものが、よりイメージというものに幅を持たせうる何がしかの可能性を秘めていると考えてみたいからだ。

ちょっともったいぶった言い方になってしまったが、スマホ文化になって、いよいよ時代は後戻りできなくなってしまっている。猫も杓子も朝から晩まで、皆インスタ映えに夢中だ。写真はいわば名刺代わり。カメラアイは第三の目として、つまるところ日常の習慣のうちに目をランランと光らせているという訳だ。
カメラという道具はかつて、ちょっとした貴重品かつ高級品だったように記憶している。が、あのポラロイド社のインスタントカメラの登場の衝撃など今は昔。名機と呼ばれたライカやニコン、ハッセルにローライ・・・まあそんなノスタルジーな響きだけで人の気を惹けるような時代でもないだろうが、写真が時代を映し出す鑑ということには変わりはない。

人が写真のクオリティやクリエイティビティよりも、写す行為すのもの、あるいはそこにある感情に重きがあるのは否めない。そこに理屈もなければ、特に意味もないのだ。ただそこに時間の止まった一枚のイメージがある。そうした瞬間をいとも簡単に物質化できるということを、むしろ喜ぶべき事態として受け止めるべきなのだ。しかし、一枚一枚に帯びる緊張感や、思い入れ、そのプロセスの重みを含んだ、画像以上としての写真には、スマホやデジカメよって持たらされたイメージには決して映し出せない輝きがあるのもまた否めない。一昔前にならえば、味がある、と言ってもいいだろう。ブレッソンでもいいし、土門拳や植田正治でも、マン・レイでも誰だって構わないのだが、写っている写真がプリントされ人目に晒されるまでには、それなりに長い行程を踏んで、それなりの時間を経てきたのだから。

当然のことながら、写真に凝縮された情報量に変わりがなくとも、そこへたどり着くまでの時間はことなってしかるべきだ。そもそもが物理的なスピードが違う。自分はそのプロセスの両極を、幸よく体験できたし、それぞれに写真の深さ、楽しさ、そして怖さをすこしは感じることのできる人間である。期待した像が写真としての価値をなさないような仕上がりになってしまった時などは、このデジタル時代の比ではないほどに無念だったりする。が、よろこびもまたひとしお、ということもある。その分一枚の写真を撮るという行為に、慎重にもなれば、思考のプロセスも長くもなるのは当然だった。だから、その決定的な差は、撮る前と撮った後の思考プロセスの絶対的な量の差といえるかもしれない。

今の時代は、とりあえず撮っておきさえすれば、あとはなんとでもなる。そのことだけでも、ずいぶん考えに開きがあるのだ。そうした差が、選挙による一票の格差同様に、シャッターを押すそのタイミングに違いが生じさせる。とはいえ、フィルムを携えて、それなりの物質感がズシリとあったカメラ片手に、野良猫や野良犬に負けじと街を駆け巡る楽しさを、今なお忘れている訳ではない。おもちゃのようであり、オブジェのようであり、古今東西道具にこだわる写真家、およびコレクター達の元に並べられた写真機というものを想像するだけで、どこかワクワクするのだ。

なので、そうした対象が写り込んだ写真以前にある思いが、写真や対象の眼差しに直結していると考えるという意味で、自分は、少し古い人間なのかもしれない。一方で、スマホやデスクトップ上に無数に並べられたピクセルの集合体を見て、その発色やフォルムに一喜一憂するのは、写真の本質とは違っているという謎のような想いもある。つまり、写真とは、写り込んだものと写しとったものの意志の疎通を確認し合う行為なのではないか、と考えるからである。

一昔前なら、プリント行為に意味はあったが、今はそれが省略される。より迅速さがもとめられ、簡単に他人と共有ができるメディアとして、人々に流通しているのだ。だからこそ、写真を撮る行為の原点、つまりは、単なる記録や時代の証人としての時の刻印という呪縛から離れた軽やかさが、人類究極の願いである愛や平和というものに通じる手段であってほしい、それだけは共通の認識として、もっておきたいと思う。

▶︎放蕩グラファックス

アナログからデジタルまで、カメラという機械を通して、目をさらのようにして時を刻印してきた写真。色、形、空気に触発されたグラフィックとしての写真。

▶︎ネズ公つめものヨゴレ一代

ぬいぐるみ「ネズ公」をモデルに撮り溜めたシリーズ。