パタフィジックダンディズム

理由といわれても、私には女の理由しかありません。つまり、そう思うからそう思うのです。(侍女ルーセッタの言葉)

シェークスピア『ヴェローナの二紳士』より

はじめにパタフィジックありき

このサイトは大きく分けて、以下五つのテーマから成り立っている。

1 このサイトの趣旨を決定づけているインスピレーションの源、パタフィジックについての考察と実践。

2 やってみることのみで始まるヴィジュアル表現による実験的アウトプット

3 詩(ポエジー)の独自解釈に根ざした、言葉のみを駆使したテクスト表現集

4 音および映像による表現。

5 それらの源であるありとあらゆる関心事(インプット)をめぐっての、偏愛的アウトプット記事。

以上のコンテンツを以って、ここではパタフィジックダンディズムと称している。どれか一つのことだけを指して特別、という意味ではなく、また平等にどの表現にも、という意味でもない。それぞれに独立した個々の表現形態をとっているが、共通項はあり、重複するテーマは無論ある。基本はちょっといびつだけが、壮大でおかしなアヴァンポップなアミューズメントパーク、そんな思いを込めている。一見するとパタフィジックとダンディズムとは、相容れないものかもしれない。が、自分としてはその相容れないものとものとの出会い、そして結合こそが、絶妙の均衡を保ち、互いに刺激しあい、新しく面白いものを生み出していく原動力であると考えている。ゆえに、それはロピュがこれまで体験し、思考を繰り返し熟成させてきた思想であり、誰の真似事でもない掛け値無しのワンアンドオンリーな世界として、ここに発信している。ただし、先入観などという色眼鏡だけは持たれたくはないが、解釈は見るものに委ねるまでである。かつて、ダダの法王、アンドレ・ブルトンが高らかにシュルレアリスムを宣言したような、高圧的、高尚なものはここには何もない。さりとて「自分の中に毒を持て」と高らかに宣言した岡本太郎のような、どこまでピュアで気高い魂だけは失いたくはない。そう、それだけはいっておきたい。

ロピュチャンネル番組プログラム

1. パタフィジックダンディズム

2.アールロピュット

3.エクリトゥルー

4.ミュージックエスト

5. ブログ(ログデナシ)

次に繋がる創作活動

はじめに「ロピュールの空想科学研究所」というコンセプトで立ち上げたのは、今から20年前ぐらいのことで、このサイトコンテンツそのものは、その時のものがベースになっている。いわばそれを再構築した格好である。文学や詩と美術、そして音やビジュアルと言語を駆使して一つの表現とするというコンセプトで始めた活動を、インターネットという新しい表現媒体を通じて公然と晒すことは、単にモノづくりをすることとは全く別もの。いわば違った労力が伴うものだと理解している。今ほどSNSも活発ではなく、ウエブメディアも創成期の頃で、そのなかで自分の中に湧き上がる気持ちをもてあますことなくぶつけて作ってきたつもりである。だが、時を重ねると、少々スタンスは変わってゆく。良い意味で柔軟に、悪い意味で杜撰になっていく。これは自分にとっては、アーカイブでありつつも、それだけではない何かとして考えてきた。スマートに言えば、洗練性を加味したもの、野暮ったく言えば開き直りとでも言うべきか。

ブランクが生じたのは相応の理由がある。やっていることにさしたる意味を感じなくなっていたからである。ほぼ2年の間、毎日ブログ記事を書き、コンテンツも充実させて、当初はとても楽しい思いからサイトを運営していたが、やがてそのことに疑問を感じ始めることになる。これって独りよがりで、誰の心にも響かないものなのか? そんな修行のようなことを繰り返していて意味はあるのか。要は空回りである。ゲイジュツ至上主義のむなしさか。あるいは小難しい概念をいくらしたり顔で提示しても、人はそう簡単に共鳴、共感してくれるわけではないという真理の前にぶち当たったというべきかもしれない。もちろん、誰のためにやっているわけではないし、魂の表現が他人にわかる、わからないということとは別なのだ。だから特に気にも留めていなかった。しかし、そこから、いろんなことを考えてゆくうちに、一旦活動そのものをやめようと考えた。単なるスランプ云々の話でもなく、今思えば、存在そのものを問い直すような人生の岐路だったのかもしれない。

しかし、時が流れ、ようやくそういうモヤモヤした闇から解放されて、自分というものの道を再確認し、ここに至っている。結局は自分という個は替えのきかぬオンリーワンの存在であり、それはもはやゆるぎのないものなのだということを確信できたからだ。ただ、時代の空気もあれば波もある。そうした気配に敏感でありつつ、動じてはいけない。以前と異なっているのは、表現だけが全てではない、ということである。どうやれば他者の心内に入っていけるのか。人は何を望んでいるのか? 見せ方やエンターテイメントとしての余地はないのかなど、そうしたことにもある程度目を向けるゆとりができた。けして迎合やマヤカシではなく、人と関わる一つのコミュニケーションツールとして、この表現を発信してゆかなければな、というような甘美だが、どこか地に足ついた等身大のユートピア思想がどこかで芽生えはじめることになる。

正直なところ、個人的なアウトプットには際限というものがないのである。それは職人さんが日々コツコツと伝統品を仕上げてゆくのとおんなじことである。違いは個性だけであり、所詮はコンセプトの問題に過ぎない。だが、自分はさらにこの先へと向かいたいのだ。成長もしたいし、魂も磨きたい。それを人生の喜びとして肯定し続けたいのだ。何より真の自我を獲得したいのだ。これからは自分の可能性を広げながらも、未知のいろんな才能や思想、可能性と関わりながら、その価値観を少しでもいろいろな人たちと共有していければ、より充実した表現へと成長してゆくのだと思っている。それこそは人生の意味そのものである。機はとっくに熟したのだから。