日常ステッキ【あ行】

いするものの常
のちあることのすべてのことがら
ちなる歌が聞こえるかい?
いえんのステッキでささえられ
わりなき夢を見る

◆愛がなくともアーガイル模様

靴下の定番、そこに編み込まれた柄は、色とりどり、アイリッシュひし形の模様。
5つのダイヤ、もしくは3つのやつがありますよね。そうです、それがアーガイルというやつでしてね、私はこの柄がとても好きなのです。
今はそうないとは思うけれども、昔はね、靴下は無地で、男なら黒とか紺色、女の子ならピンクや赤、なぁんていうふるくさぁい考えが横行しておったのですよ。いやあ、笑ってしまいますがね。ぼくが学生のころ、規律があって足元のおしゃれさえもケチをつけられた時代だったのです。白いスニーカーにアーガイルがちらり覗く足元なんて素敵なのにね。
だから今でもときどき古着屋なんかを覗いても、このアーガイル模様のセーターなどをみつけるとうれしくなって手にとってしまうのです。
この柄はタータンチェックで有名なスコットランドはアーガイル城のお姫さまが、恋する王子に苦心して編み込んだオリジナル模様だ、という話をどこかできいたことがありますが、愛情を込めて編み込んだのがダイヤ模様のハートだったなんて素敵な話。オシャレの基本はやっぱりイギリスなんだなあ。

◆哀愁蝉ナール

セミ、といえば俳句の季語でもしばし扱われるところの夏の代名詞。小さいころ、夏になるとアミと虫かごをもって夢中になってセミ採集していたっけな。というわけで、昆虫の中でもセミって奴には親しみがあります。でも、やっぱりやかましいこと極まりない。暑さ3割り増し。このやかましさは人間様とは正反対で♂どもの仕業らしい。もっともこれはメスを求む求愛の習性だからして、男としては目つぶる、ならぬここは耳を紡いでおきますかね。

まるでレーザービームみたいに浴びせられる声で鳴くあぶらぜみやミンミンゼミから、「かなかなかな」という詠嘆風情のひぐらし、あるいは「ぼうしつくつく」と面白い音声で鳴くツクツクボウシなど、それぞれに個性がありますね。小さい頃の記憶を紐解けば、関西地区にはニイニイゼミだとがクマゼミという種類もいたはずなんですが(今もいるはずだよね?)。

見た目、昆虫だからグロテスクだったりするけれど、円谷プロの傑作、バルタン星人の原形としてあるように、どこかメカニック、おもちゃ好き、メカ好きの子供には以外と受けはいいのでは?と思ったり。うるさいだけのあぶらゼミくんでさえ、チョコカラーの羽根をよく見ていると、なにやら緑の幾何学模様の線があったりして、とても美しかったりするのよね。

そもそも、あの羽化の神秘は必見もので。長い年月地下生活者で、ようやく日の目をあびてもわずか数週間、うまく羽化できれば、これ幸いの儀式。で、背中を割って出てきて、宙返り発進、神秘の純白の羽根は、地上という俗に属するための洗礼のような感じで徐々に変色していくんですよね。あれを見ると日中、数週間の大合唱ぐらい、大目に見てあげたい気になります。まあ、大変な工程をへてこの地上にやってきたものたちへの慈しみとして。それもオスのみで、メスは静かに数年後の子孫に夢を託すだけ。けなげといえば、これはけなげこの上ない。
秋口になれば、ぼうしつくつくが、むしろ、その反動で愛おしくさえ思えるのだから不思議なものですね。

◆愛すべきはハーゲンダッツだっ

自転車でリンを鳴らすアイスクリーム売り(通常このタイプはソフトクリームですね)なんて、今や成瀬巳樹男なんかの古い日本映画のなかでしかみかけませんね。が、ふとなにやらさそわれるようにアイスクリームが食べたくなることってありません? 僕が昔住んでいた某中央線沿いの町では、それ専門の天然の牛乳しぼりのアイスを売りにするアイスクリーム屋さんがあってちょくちょく出向いていたのですが、わざわざ買いにいくのも面倒で、まあそのへんのコンビニ、昔なら駄菓子屋の入り口にあるなんでもないクーラーボックスをまさぐって、100円前後のものでも十分なので、ついアイスを求めます。そう、このときのポイントはなんといっても木のスプーンで食べること。あのへら、あのチープさが実にキュートなのですよ。むかし、メロンの形をした入れ物に入っていたメロンアイスって知ってます? 懐かしいな。

まあ、 ちょっとゴージャスにいきたいならコンビニなどでも簡単に手に入るハーゲンダッツのアイスなどはいかがでしょう。値ははります(+150~200円)が、ちょっとした贅沢気分が家庭でも味わえてニコリ。夏なら冷たいアイスコーヒーや、アイスティーに浮かべてアイスフロートとしていただくのものいいですね。ちなみにヘイゼルナッツ味がお気に入りですし、あずきやチャイも旨い。

ちなみにHäagen-Dazsとは、アメリカ発祥のアイスクリームブランドだけど、字面からいうとなんだかヨーロッパ、北欧寄りなイメージがします。調べてみると、創始者ルーベン・マッタスという人が、アイスクリームというものが酪農王国デンマーク的ということで、その首都コペンハーゲンを文字って命名した造語なんだとか。
いわば、消費者の気をうまくくすぐることで購買意欲を高めたっていうわけです。見事な戦略ですね。

◆青空散髪

とかく商売をやるには場所が要るんだわさ。でもねえカネもないし、場所選びもたいへんだし・・・なあんてヒトでも、その盲点をつくのが、昨今のネットビジネスというもの。場所はこの画面の背後の広大なるWWWな宇宙。一理あろう。そもそも、身ひとつでモノや芸を売り歩く、行商や大道芸の醍醐味は、いった場所場所が店や舞台としてのセットに成り代わるというじゃないかな。これこそ今日のビジネスの先鞭ではなかろうか?

たとえば近頃、外で散髪をする光景ということに出くわしたことがないが、先日はとあるどこかの庭でその類の光景を目にして、はっとしてそののどかさに脱帽。
そこで思い浮かぶのが、高峰秀子&松山善三夫婦の貴重な写真(撮影は秋山庄太郎さん)、それはおそらく自宅だと思われるが、庭で夫を散髪する妻、というしろものである。有名女優と監督のカップルというのはおいておいて、アオゾラとつくとなんだかとっても健康的、というのか明朗な雰囲気がただよう。それゆえソレイユ、青空の下で、ご亭主の髪を整髪する大女優の姿に、なにやらほほえましきものを感じるわけだけれど、何もたいしたことでもあるまい。
思えば、昔はみんなこんな風にざっくばらんにお天道様に見守られて、はさみと戯れていたのだしね。たいていの男の子はいがぐり坊主、女の子はおかっぱ娘。それじゃカレーライスとハンバーグしかやっていない食堂のようなものだけれど、かつてはそれでよかったわけね。

◆アクセント、イノセント

 もし、初めてお話をするヒトが、いわゆる御国コトバで話してきたら、どうでしょう? まあ、礼儀知らずは別としてなんだか親しみがわきませんか? 自分はそういうヒトに親しみを持つ方ですね。まあ、あんまりネイティブだとわからないかもしれません、が、そういうことってほとんどないですね、残念。ま、アナウンサーでも役者さんでも、もっとも大変なのが、標準語のアクセントだと聞きます。これぞ、アクセント苦闘なり。
 東京は地方出身者のあつまりだといいますが、日常では不思議とことばの上でそれを感じさせないのぐぁ、ちょっどぉ不思議だったりしますにゃあ。まあ、あたくしめのような生っ粋の関西人という輩は、その言語をあたかも標準語であるかのように、図々しく自然に繰っておるのであります。むろん、関西弁にせよ、大阪弁にせよ、微妙に個性があって一概には括れないのですが……ところが、東北やら、北陸、東海など概ね東日本のひとたちは、この図々しく厚かましい関西人とくらべてみれば、おしとやか、上品ではおまへんか?

 でも、ですよ、この方言こそ、郷土の誇り、そして何ものにも変えがたい強度な個性じゃあないですかね。そう思って、耳を傾けると、ローカル色豊かな音響が聞こえてくる気がします。近頃じゃ、女子高生の間でも暗号のように使われているとか。
 んだ、んだ、そうだべさ。おらたっちゃの、ふづうにつかっとう、こぎゃぁなこと、なぁ~ん、いわれんでもしっとるけん、ばってん、おみゃぁさん、いってえどこのすぃとか、おせえてけれぇっかぁ?

◆熱燗好きのお銚子もの

 小生、別にアルコール抜きの生活でも不自由なくやっていけるのですが、やはり、飲む機会があればそれなりに飲みます。で、まずはビールで、となりますが、本音をいうとビールはさほど好きじゃあないです。なら?
冬なら、迷わず熱燗ですね。冷酒、マス酒ってのもね、わるかぁないんでございますが、あのとっくりに御猪口ってえのがたまらなく好きでして。いやあ、これってオツですよぉ。ぬるめでね、おっとっと、なんていいじゃないですか。こうした風情は大人になってからわかるようになりました。当たり前か。なんでしょう、ちびちびやるっていう習性が自分にあっているんでしょうね。がぶがぶ、とか一気一気とかって言うのが、どうもダメな口です。あれは全然粋じゃない。小粋でもない。やはりお酒は味わうもの。ゆっくり、とっくり、いろんな話をしながら、適度に酒の肴に箸をのばしてね。

そういうところで、小津安二郎の映画たとえば「秋刀魚の味」なんかいいよなぁと、つくづく思います。哀愁なんていうとじつにありきたりですが、毎回繰り返し繰り返し、テーマを繰り返すいうあのスタイルはなかなかどうして、斬新なものですよ。今日の音楽シーンにおいてもミニマル的な構築がかなり顕著にコアになってたりしますからね。熱燗も、まさにあの量、あの風情はミニマル嗜好といってもいいんじゃないでしょうか。お銚子ものには、ちょうどいい感じです。

◆あっというまの天然感想記「あっぱれ」

夏はどちらかというと恨めしいことが多いんです。体力的に、気力的にどうもなじめませんのよねぇ。特に、近年の異常気象で30度越えは当たり前だし、下手すると40度近くも珍しくはない時代です。別の見方をすると、どこか、他人ごとの季節、と言うか、夏は夏として割り切るしかないのです。開放的で、健康的で、迷いのない夏小僧たちときたら羨ましいほどです。とにかく自分にない要素がこの夏には多いんです。でもねぇ、ひとつこれだけはいつも感心することがありまして。夏って、本当に洗濯ものがあっというまに乾いちゃうでしょ。これって凄いことだなぁと。自然の力をまざまざ見せつけられるのです。大事なTシャツなんか手洗いして、もう絞らずに水ぽたぽたでベランダに干しても、ものの数時間ですよ。これ、ありがたやありがたや、汗かきっこでも、こうしてうまくローテーションで着るものがまわっていくんですから。こんな強力乾燥機、どこの家電メーカーが作れます? 消費電力ゼロ。この圧倒的パワーこそが、わたくしの尊敬にも似た夏への憧れ、そのものを代弁するような出来事なのでございます。ひとよんで天然乾燥器「あっぱれくん」ロピュデザインより夏限定発売中!なんちゃって。 

◆ありがとうをいつもポケットに

細野さんの初期頃の曲に「ありがとう」と言う曲がありますね。あれを聞くと思わずニンマリしてしまうのです。あらたまっていうことじゃないかもしれないけれど、ありがとう、ということばは、いくら聞かされても飽きないいいコトバだなあ、と思う。何かをたのまれたり、何かをしてあげるようなとき、結果誰かが喜ぶ。それでいいのですが、別に、なにかを期待しているわけじゃないんだけど、無償でなにかをすることの代償は、このありがとうというコトバによって保たれている気がするのです。あたりまえのことをしてもらうときでさえ、その図式のなかで、ひとこと、素直にありがとうね、と一言あるかないかで、そのデキゴトの輝きはまったく違うものになるんじゃないかと。もちろんタイミングも重要ですが、まずは気持ちです。だから、人を判断するときも、こうした簡単で何気ないことをフツーにできる、いえるということがかっこいいな、と思えるんですよね。今はスマホ文化全盛で、どんなことも簡単にラインやメールで済ますことも多いけれど、自分のコトバで、ありがとう、を付け加える、その気持ちはいくつになっても持ち続けていたいなあと思っているんです。

◆アフロな吸盤に吸い寄せられて

 オオサカ人にとってたこ焼きとはいわば3時のおやつ? いや、おやつとまでいわなくとも、一家に一台あると言われるあの鉄板共々、とても身近な食い物であることは間違いありません。千枚通しで、あの回転くるりっってな技は、こどもながらに感心したものです。いつか自分もあれをやってみたいなぁ、なんて思ったものです。ナイスなたこ焼きというのは、味はもちろん、なんたってタコが大きい、というがかなりミソですね。あとは外のカリカリ具合だったり、中身のトロトロ感だったり、それなりに個性もあるものです。
 さて、この蛸という生き物ですが、日本にはなじみが深く、大和絵や大津絵のモデルから、たこ入道クレクレタコラをはじめとするタコキャラが数多く存在しております。たこのはっちゃんというくらい非情に親しみやすいキャラである一方、タッコング(帰ってきたウルトラマンでの怪獣)、オクトパスやらテンタクルズ、蛸入道のように人を襲う恐ろしいイメージもありますが、これは、英語ではdevilfishというぐらいだから、どちらかというと西洋的イメージなのでしょうね。
スーパーにならんでいる蛸が、なんとモロッコ産だったり、して???と思ったりしますが、いずれにしろ、なんとも気を惹く生き物ですね。
足の裏にできるたこ、タコ足配線、タコ部屋、ちょっとエロなタコおやじ、マイナスイメージは御愛嬌、つるつるの頭(本当は内臓)、墨吐き芸、そしてなんといっても、八本足にあの大きな吸盤たちにそそられます。実際、ゆでだこ状態のものを見ると、グロテスクというよりは、渦巻き状に茹であがって、いっそううまくデザインされた見事なオブジェに思えてしまうほどです。彼らは自らの足を喰ってしまうといわれますが、妙に納得したりします。
要するにタコという生き物は基本的に丸い要素でなりたっているために、イカのように鋭利に威嚇的ではない、より柔らかな感じがするのでしょう。これが三角や四角やもっと複雑で鋭利な形だったら興醒めですが、これはもともと機能として何かに吸い付くための、理にかなった構造なのですものね。日常生活にも、この吸盤原理はしっかりと役立ってますもの。だからタコが嫌いなヒトが信じられません。 

◆雨を彩るアジサイ日記

六月といえば通常、梅雨の季節。年によっては八月手前(夏休み突入ぎりぎり)まで続く雨期に、子供ならずともうきうきするのはさぞや大変かもしれません。アメアメふれふれかあさんが、邪の目でお迎え、ゾッ。というブラックジョークはさておいて、わたくしとしては、決して嫌いじゃないですね、雨というやつ。井の頭線沿線には、まさにこの時季がハイライトといわんばかりに紫陽花が並んでいて、目の保養にさせてもらっております。じっさい、パープルの花を咲かせますが、ブルーや白、マゼンダなどもあります。うまい具合に、季節に順応した色合いで、まさに雨に彩りを添えてくれる花。それが紫陽花の魅力です。
小さい頃住んでいた家の玄関口にこの花がでんと構えていて、その意味でいっそう親しみがわくのかも。カタツムリがいたりするともう嬉しくなってしまう。なんだかホッとするのです。父親がむかしこの花を挿し木をして育てているのを見たことがあります。水という物質に縁がある自分としては、その象徴のようなアジサイを順当にこの季節にみるおかげで梅雨が嫌いにならなくて済んでいるのですよ。高貴な紫、そしてクールなブルー。雨にぬれた大きな葉っぱのグリーンが鮮やかで、夏なのに寒色といっても全然冷たさを感じさせない雰囲気にしばし和まされるんです。

◆アロエは素敵なナイチンゲール

いつからか、アロエヨーグルトが、お気に召しておりますねぇ。
ナタデココも歯ごたえがいいので好きです。タピオカは舌に転がる様、それでもって舌ざわりがなんともいえずグー。杏ニン豆腐も咽ごしがよくて。どうもこれ、デザート三昧ですけど、なかでもアロエって植物、実はけっこう見かけているはずなんですよね、そこら中で。ぎざぎざ葉っぱの、中は透明果肉の、あれですよ旦那。この果肉がヨーグルトにはいっているやつはコンビニでよく買います。ちなみに、M社対決ではブルガリアヨ-グルトに軍配かな。
 このアロエ、実は医薬品としても効能があって、火傷したときに湿布したり、あと傷口に貼れば解毒殺菌作用もあるんですね。むかし、足の爪が内にくいこんで、化膿してどうにも痛くて痛くて歩けなかったとき、このアロエに随分救われたのを思い出します。あと火傷したときなども何気ない優しさで傷を癒してくれるんです。あのころ、アロエヨーグルトなんて、ありませんでしたわさ。あっても売れなかったでしょう、今みたいにはね。

◆いいたい方言

こっちで、これ“直しといて”っていうとするやん、ほなら“修理する”という意味にとられるんやわさ。最初びっくらこいたねぇ。茶店でバイトしとって、コップを棚に“直しといて”、というたらきょとんとされたんやで。こっちやったら“かたす”ってなこというんかいな。しばくとか、どつく、いてまうとかやったらわかるやろ? そら標準語にしては品がなさすぎ。ほんで、オオサカ弁いうても、これが微妙に違ってとんねんな。ワレでよう知られとる河内とか、小こい頃過ごした泉州いうとこやったら、もうちょっと土着的いうんか。都会やったら、なにしとったん? でええところ、泉州やったら、なにしちゃあったんな?となりよんねん。京都や神戸やったらもっと上品に、なにしとーとかいうたりな。そないわけで地方のコトバを聞くんはごっつ楽しいし、会話もやっぱりはずむやんか。オオサカ人いうたらほんまあつかましい人間ばっかかもしらんけど、いっちゃん自分のコトバ大切にしてる人種いうか、愛着もってんねんやろなー。

◆いカスケット

 帽子マニア、とはちがいますが、常日頃帽子が似合うひとっていいな、と思ってるんです。自分でも時々被りますが、暑く蒸れるので、冬でも毛糸の帽子はちょっと考えます。ウォークマン世代としては、ヘッドホーンができない帽子は、基本的にしません。近頃は ヘッドホーンのバリエーションも増えて、耳パッド、イヤホーンのような感覚のものがあるので、髪型や帽子のあるなしに関わらず、安心して歩行リスニングが楽しめますけれどね。
 さて、ベレーというのがアーティストや画家の代名詞だとしたら、カスケット派なんでしょうか? モッズなんでしょうか、ヒッピーなんでしょうか、そのあたりわかりませんが、個人的にはダンディよりは、キュート系、さしずめF・トリュフォー監督の「突然炎のごとく」でジャンヌ・モローが被っていたカスケット帽がよくって、ボーイッシュでありながらもすごくチャーミングで、いまどきのガ-リ-たちも真似したいアイテムなんでしょうね。あんなのが、いいなあ、いかすなぁ、と思っておったわけですね。

◆いまどき、河童どきあ

妖怪百科などをみていると、河童も立派な妖怪でして。みたこともないのになぜかとっても身近で、しかも愛されている気配すらある、というのはどういうことだろ? 
 妖怪だから、イメージはもろもろで、その河童と一口にいっても「ガータロ」だの「がラッパ」だの「ひょうすべ」けっこうバリエーションがあるんですね。個人的に思い付くのは、西遊記のサゴジョウ、黄桜の河童、エロガッパこと鳳ケイスケ、ピンポンパンのカータン、ダウンタウンのごっつでのまっちゃん扮する河童の親子などなど。イメージとしては、グリーンで、頭に皿、というか円形状に剃られてるというか(なんとなく修道士、ザビエルのイメージがするのは気のせい?)、で、河に棲息するというので、水掻きがあって、さらにそこに好色というイメージが被いかぶさって……。
 まあ、架空のものとはいえ、キャラクターというだけなら問題なく可愛いやつだなと思えます。それがリアリティを帯びるというのは、人間と絡んだとき、そう、つまりそれらのキャラクターがどうにもひとなつっこく、我々人間と向かい合っても、違和感なくかまいたくなるようなものなら、やはり気になりますね

◆イラスト付きの図鑑

地図ってその名の通りとてもグラフィカルなものですね。いろんな描き方があって面白い。そして、図鑑というのは実に楽しいですね。図形という概念、われわれ言葉を使う人間の原点ですしね。私はどちらかといわれれば、写真付きのリアルなものよりは、イラストなんかのグラフィカルタッチのもののほうに惹かれてしまいます。ことばを絵にしてみせるというのは簡単なようで、結構技術が必要なんですよね.。昔の地図は今ほど正確じゃないですが、味がありますよね。それはひとえに手描きなのとそこには随分思い入れに近いイマジネーションが付加されているのとで、想像的になるのだと思いますね。
 小学校のころから、地理は大好きだったし、新学年が始まり地図を手にしたときはワクワクしましたね。世界の気候をあらわしたグラフや、世界各国、あるいは国内の特産物マップなんかが載った図は楽しいものでした。最近、とある絵本ショップで薦められて購入したアメリカの子供向けの古いイラストタッチの The Golden Geography という本がお気に入りです。Cornelius de witt というイラストレーターが、そうした世界の風習や生活の雰囲気を味のあるイラストで表現しているのですが、観ていて厭きないですね。一昔前の日本のこともどこかわれわれ日本人からみてエキゾティック(異国風)に紹介されています。

◆美しき兄弟愛

 わたくしには3つ違いの姉がいて、いまでも仲はいいですね。なかなかどうして一言では語れない深い絆があるのでございます。単に身内だからというだけでなく、同じ血を分ける運命上の絆と感覚の共有といいいましょうか。不思議ですねえ、キョウダイって。ダウンタウンのまっちゃんには兄と姉がいるそうな。やっぱし先に生まれたものからの恩恵ってあるよねえ、だって自分がしらんこととかを教えてもらえるやんか、といったようなことをちらっとラジオ番組でいっていたのを覚えているけれど、まったく同意しまする。かくいうわたくしも、随分恩恵は受けましたもの。姉がもし音楽を聞いていなければ、いまこのような音楽を聞きつづけているだろうか? などと思うのです。たとえば、当時ミーハーアイドルでしかなかったクイーンやジャパンといった洋楽を、そのルックス性からファンになったお姉さんは、その魅力を理屈抜きで教えてくれたものです。

 そのジャパンのメンバーであったデヴィッド・シルヴィアンスティーブ・ジャンセンは実の兄弟でありまた。いわゆる音楽メイト、盟友ですね。ふたりが揃うと阿吽の呼吸が生じるのでありますが、兄デヴィッドは、コンサートのときのは弟を必ず「マイブラザー、スティーブ・ジャンセン」と紹介するのです。事実であるから別に驚くことではないが、わざわざ我が弟というニュアンスに、いつもなみなみならぬ愛情を感じてしまうでのです。結局それは他人であれ、兄弟仲がいいのはみていてとても気持ちがいいし、微笑ましい。時には二人ひと組のような兄弟愛には美しささえ感じてしまうものだ。おすぎとピーコから、バルチュス&クロソフスキー、マルセル&レーモン・デュシャン兄弟、勝新と富三郎、はたまた中川兄弟などなど。いやあ、だからひとっりこというのはちょっとさみしいでしょうね。自分にはその気持ちはわかりません。

◆永遠のタオル児ブルーズ

タオル地のハンカチは、汚れが気にならない、というのか、そりゃあ清潔なのはもちろんですけど、汗かきっこで、アバウトなあたくしには、いわゆる木綿のハンカチーフよりはこちらのほうがありがたい。どちらかといえばアンチセクシーなタオル地が愛おしい、そんな性質でして。もっとも、タオル地というのは肌触りがよいので、むかしから大好きでした。小さな頃は、タオルのことをテンテ、テンテと呼んでぼろぼろに、どろどろになるまで愛用し、それはそれはタオルフェチだったとか。いまでも、タオルケット、夏の暑い盛りでも、タオル地一枚は欠かせないうつつからの夢先案内道具なのです。

◆映画のチラシ 

国内盤のCDを買えば、たいていは解説書と歌詞カードがついているでしょう? あれは日本独自みたいだよ。ご丁寧ご丁寧。情報としてはすこぶるありがたい。日常では、よく言われるところ、水と安全がタダってこと。まあ、最近じゃ、事情も変わってきているけれどね。ティッシュはタダだし、マッチもタダ。シャンプー&リンスの試供品、はたまたシガレットまでもらえちゃう。食品コーナーでは試食ができて、カルディなんかじゃコーヒーも飲めちゃう。ウホォ~。
 まあそれにはほとんどありがたみなどないけど、映画のチラシっていうのは案外、重宝だと思うよ。特に年月が経てば、当然、価値も出てくるもんだし。某所では結構いい商売が行われているみたいだしね。ちなみにマイコレクションは十数年モノだから結構貴重なものがあるよ。
ノスタルジア」「ラ・パロマ」「アメリカの友人」などなど。いわゆるいまは亡きシネ・ヴィヴァン系のヤツ。

◆絵本deえへん 

絵本っていいな、と思って本屋の絵本コーナーにもよく行きます。それも、正確には絵本がいいな、ですね。自分に子供がいるわけではないから、ちょっと気後れするようなときもありますが、それでも、みるとわくわくしますよ。絵本といっても実に多様ですね。子供向けのものから大人でも楽しめるものまで。とにかく、色のたくさんあるもの、ポップアップと呼ばれるような仕掛け満載のもの(四角形の本ばかりが本じゃない)に惹かれます。ストーリー性も大切でしょうが、こどもにはやはり、そうした見た目の分かりやすさ、楽しさが必要だと思うんです。どちらかというと、外国のものにいいものがありますね。
 たとえば穴のあいた絵本、エリック・カールさんの腹ぺこあおむしなんて、もう発想がすばらしい。チェコのクヴィエタ・パツォウスカーさんのものもいいですね、こちらは色彩の魅力と、絵のもつ個性に脱帽です。その他、チムニークの線画も好きだし、サラ・ミッダの水彩もいい、サラ・ファネリのコラージュなんかも、とついつい欲張ってしまいます。イタリアの定番ブルーノ・ムナーリさんの本は観ていて楽しいし、もっているだけで幸せになってきます。多くのデザイナーに影響のほどが知れますが、なによりデザインが機能性だけではなく、生活のなかで楽しみを与えるってことが実に素敵なんです。こんな絵本を見て育つ子供がうらやましいなぁ。いやあ、まったく不毛の子供時代でしたもので。

◆MCに微笑むシーン

ライブなんかにいって、いつも思うことは、MCっていうのは、ほんとうにひとそれぞれってことですね。まあ、演奏なり音楽そのものを聞きにきているのだから、はやく曲をやってくれ~、というのもわかるし、ミュージシャンたちも、おれたちゃ、芸人なんかじゃないんだぜい、というのもわかります。でも、待ってください。ときには、その人柄にふれて、この人にしてこの音あり、と実感するのもわるかあないと思いませんか?
 わたくしの大好きなさかなというバンドは不思議な男女2人組で、ライブのさなか、いっぽうはおしゃべりが大好きで、いっぽうはとても寡黙で、つまり静と動、究極なんです。が、これが呼吸がぴったりで。人柄そのもののMCに思わず笑いをこらえるのに必死になるけれど、いざ音楽が始まると、やっぱりこれはある種天才だけが許される一芸だなあ、と感心するわけで。このギャップが楽しい、というか、うむうむなるほどなのですね。
 つまり、しゃべくり術もひとかどのものなのです。音楽同様だれにも真似できません。もっとも、天才ゆえの天然なんですけども。

◆お茶目なお茶会

お茶のない生活はなんとも味気ないとお思いなさらぬ、そこのビジーなアナタ。タンニンだのカテキンだの、その成分の効能のほどは身体にも多大な影響をもたらす、とは今日の定説でござる。さて、茶道となると、さらに奥が深い。何やら、オソレオオイのだが、先日、茶道をたしなむご夫妻のお供ということで、現場を覗かせてもらう機会があった。どこか浪花千栄子を彷彿とさせる老先生が登場し、優雅なお茶道のほどをご披露していただいた。儀式的なやりとりをみていて、これはこれは、と思ったけれども、なかなか、洒脱な物腰で、そもそもお茶などというのは、優雅なお遊び、というような風情なのだということをひょうひょうと教えられて、なるほどと思ったのである。
茶人たちの味わう、お茶で雰囲気を作る、ということを簡単に説明できないけれど、作法というものはひとつの創作だということである。おお、利休どの!
例にもれず、礼に始まり礼に終わる一連の動作は、畳に設けられた茶用の掘り釜からひしゃくでお湯を酌んで、ときには羽根を使って釜の周りを掃いてみたり、木箱を使ってやりとりしたり、その動作、やりとりが非常に面白いのである。茶をたてるのは粋であるが、創作をたてるのはそれこそコイキである。
これならひとつ、オリジナルな作法を創ってみるか、などとお茶目心をかき立てられたのだった。むろん利休どのには内緒でございまする。

◆おっさん的クロワッサン症候群

朝ってあわただしくて、なかなか朝食がゆっくりいただけないこの哀しさ(時間のなさで、美味しくいただけない朝ってチョーショック!!)。そのむかし、一世風靡したテレビドラマの「傷だらけ天使」のオープニングでヘッドホーンをしたショーケンが新聞を読みながら、トマトとハム(コーンビーフ?)でしたっけ、あとビン牛乳を呑むシーンがあったと思うんですが、あれはかっこよかったなぁ。いわば、メニューは別としても、ああいうワイルドな感じに子供心に憧れたひとは多いのではないかしらん? その後、まあ実際大人になって、あこがれを実践したのは、カフェオレボールのカフェオレとクロワッサン、そうワイルドではなくマイルドなやつでした。オーレは湯気があがり、クロワッサンは焼き立てなのがミソ。絵に書いたようなフレンチスタイルなやつ。
べつだんイギリス風にトーストとハムエッグでもいいし、オートミールやコーンフレークってのもありです(本音をいうと、納豆ご飯に味噌汁、海苔、焼き魚といったラインでも十分幸せなんですけど)。要するに朝食を摂る、っていうだけのことですわ。でも、クロワッサン(三日月)じゃないとものたりないってこともあるんですよね。現実として、近くにお気に入りのパン屋さえキープしておけば、無理なく毎日味わえるささいな日常、よくみれば、これ文字通り造形的なひねりあり。さすがはフランス、食通のあみ出したパンって感じがします。皮がぼろぼろ落ちるのがたまにきずですけどね。

◆乙レンズで、突撃だ

今と違って、カメラがとても貴重な時代。一眼レフの望遠レンズ付きカメラニコンFM2がマイカメラ。で出来た写真はというと、いいものもあれば、悪いものもあり、それでも心のどこかでいい写真ってなんだろう? というのがいつも念頭から離れませんでした。テクニックを磨こうという思いはさほどなく、狙ったものが普通にちゃんと写ってりゃいいやと、ぐらいのアマチュアリズム。とはいうものの、いい写真を撮りたいなと思うところがまったくない、というと嘘になります。そんなこんなで、下手なカメラも数撮りゃ“当たる”とばかり、撮りまくっていた時期があって、それは、結論的にどこかでそういうジレンマを突き詰めたかったからだったと思うんです。
 そんないきさつを経て、今は少し違った意識でカメラを構えます。それは「距離」の問題ですね。望遠だと自分が寄らなくても、レンズが寄ることで、対象に近づくことができるわけで、どこかで容易な気持ちが芽生え、どこか技術面や被写体のよさに左右されうるものが多い気がして、ええい、それじゃあ、50ミリのレンズで固定するか、とハラをくくって、今は主に、広角でもない、望遠でもない、なんの変哲もないレンズで、自分自身が被写体の距離を決定する写真を撮りたい、そう思うようになりましたね。
映画のキャメラマンで田村正毅というひとがいます。伝説の小川プロを支えたキャメラマンで、今、日本のキャメラマンのなかで個人的にもっともリスペクトしているひとの話を聞いて、なるほどなぁ、と思ったのがきっかけでした。田村さんは対象に寄る、自分で寄る、その距離を大事にしているひとで、彼の撮る映像に、彼の視点以外の虚飾が感じられないのは、そうした等身大の距離感、自分の目として同化させたレンズに、肉体を与えるという勇気があるように思われますね。

◆男の子はみんなパトリックの…… 

フランスじこみのこの履きゴゴチ、そのかろやかな足音。そう、ゴダールの短編「男の子はみんなパトリックという名前である」のもじりだけど、ぼくは、なぜだかパトリックのスニーカーが好きでここ十年はずっとひいきにしております。デザインが好きなのと履き心地がよいのと、あとはなんだろ? いわゆるストリート系、つまりはサイバーなナイキや定番化したアディダスやコンバースとはちょっと違う軽いエレガンスがあるからだろうか?

おまえは何色のスニーカー履いてんだ?「ダメスカ」

◆オノマトペ

擬態音というんでやんすか、このオノマトペってやつは。ことばのオブジェっぽいこのことばもいい響き。まるでカフカの短編のタイトルみたいだし、食いしん坊さんには、なにかしらデザートかなにか美味しい響きがあるかもしれない。花田清輝というひとは『鳥獣戯画』のなかで笛の音を「フ-ロートルラ、ヒャウラウロー」と表記しておりました。なんとも言えぬことばの妙! お・み・ご・と。町田康は、なんかの本で「ガルルー」などと吠えた。また、さかなのポコペンは、「chocolate」という曲でためいきを「ドゥギレヴ-」と唄ったわけですね。彼女もまた知る人ぞ知るオノマトペの天才。そこで、自分もひとつ、とがんばってみるか。その妙はカンパネルラ、カンパネルラ? それって宮澤賢治っぽいけど、なあんかねぇ‥うっへ。

◆おむす美学

 おにぎり、というより「おむすび」といったほうが上品に響きますね。にぎる=にぎり、というのは寿司のイメージがどこかにありますでしょ。だから、「結ぶ」というほうがすっとする気がしているんです。
 だから、むすうんで、ひらいぃて……この童謡を聞くと、おむすびを連想してしまったりするのかも。つまり、米粒の固まりを水をなじませた手と愛情とで、ひとまずきゅっとにぎって、きゅっと締める。そしてバレンや笹の葉なんかで弁当としてきりりと結ぶ。そして、旅先やどこかでその結びをほどいていただく、というようなイメージの連鎖に叙情を感じますねえ。
具でいうとツナマヨネーズが好きですね。オーソドックスに梅干し、おかか、シャケもいいですよね。たらこでも、明太子でも、なんなら天むすでもいい……まあ、しょせん中身はなんでもいいんですよね。何のことはない、オコメ好き、ゴハン党なもんで。
 でも形なら海苔が巻きやすく、弁当箱への収納もスムーズな俵形がポピューラーでしょうか? コンビニ感覚ではどうも三角形が定着しています。
 余談ですが、相撲で結びの一番の後、優勝者に米俵を贈るという儀式が昔はあったんですけどね……なにに結び付けるやら。
 こだわり、それは手でにぎられたもの=愛情、ということでしょうか? 弁当で売られているものはおおかた型で押されたもので、ひとのぬくもりをへたコメの飯粒とはやっぱり違いますね。なにより、農耕民族としての長い長い遺伝子レベルの情感を感じさせ流のがおむすび、これをしておむす美学。ちょっと大袈裟かな。

◆オムライス、ケチャップ皇帝

小さい頃からオムライスってものが大好きでした(その後天津飯なる存在をしるわけであるが・・・あんかけじゃあ、あんのじょうお子さま舌にはちょっと荷が重いわけですね)。そういえば、学校をちょくちょく休んでは、病人特別待遇の恩恵を受けて、近所の飯屋さんからオムライスとかやくうどんを出前してもらっていた我が家のちゃっかりお姉さんには随分嫉妬したものです。
百貨店のレストランなどでは、お子さまランチなどに旗がたったミニオムライスがのっかってましたが、いまじゃ、ちょっとこ恥ずかしくて注文できません。(大人になったもんだ・・・・そうそう、オムライス用の鋳型があるんですよ。あまり乙ではないけれど)ところで、世にはマヨネーズご飯なるものをうまいうまいと食っている人がいたりするでしょう? わたしゃ、それはちょっとなあ(あっ、でもシーチキンマヨネースおにぎりをうまいうまいとたべているもんなぁ・・・・・と矛盾を感じつつ)と思っておりましたが、これだってれっきとしたケチャップご飯、立派にビザールなまぜご飯ぢゃないか。タマゴでくるまれたケチャップご飯、その上に仕上げとしてケチャップで。これを旨い旨いと食っている以上、同類ですよね。でも、確かに旨いじゃないですか。黄と赤の視覚的にもグ-な一品。チキンライスじゃあいまいちものたりない。
実はむかし、アルバイトをしていた喫茶店の人気メニューがオムライスで、実際に作って出していたことがあるんです。あらかじめ皮をフライパンでまあるく焼いておいて、ケチャップご飯の上に被せるだけでした。円形の薄焼きを長い箸で半分ぐらいのところひっかけてひょいとひっくり返すのにコツがあるんです。火傷することもあるし、卵がうまくひっくりかえらないこともあるし、タマゴの薄焼きってけっこう難しいもんですよ。うまくできれば職人さんの域。いまじゃ、練習しないとできないだろうな。

◆おれんちのオレンジメモリー 

 秋、彼岸を前後してにオレンジ色の小さな花を見かけるようになりますよね。金木犀に注目せい、とばかり、虫じゃないけれど、この花の甘い芳香についつい誘われるんですよ。深呼吸をして、空気を吸うととても気持ちがいいじゃないですか。金色まばゆいこの花、そう、わたくしはこの花が大好きでして。
 小さいころ住んでいた家の庭の垣根がちょうどこの花の木で仕切られていて、身体が知覚してしまっているからでしょうか。そこには蜂の巣などもあって、「痛い」思い出も多々ありますが、今となっては好感だけが残っている木、です。
 もっとも、トイレなんかの芳香剤は好きじゃないですね、ありゃだめっすね。やはりニセモノはニセモノ。でも、金色とまでは思いませんが、あのオレンジの暖色には安らぎを覚えるんです。ちなみに、その庭には金柑の木、柿の木もあって、このオレンジカラーがどうにも眼に焼き付いているんです。(とはいえ、アンチジャイアンツなんですけどね)
 風情としては、道路に、あるいは駐車してある車のボンネットの上に、ぱらぱら雪のように積もっているのがみやびではないかと思います。オレンジの雨、ではなくして、オレンジの雪が降る、ってやつでしょうか。また、レピシエからシーズン限定で売られている金木犀という銘柄の紅茶も大好きで愛飲しております。葉っぱにもオレンジの花が混じっている実に美味んです、これが。

◆ウッシッシー、思わず微笑むプリティな海底物語

その昔、現千葉県知事の森田健作主演の『オレは男だ』というベタな青春ドラマのなかで、主人公森田健作扮する小林くんの兄が研究していたのがウミウシという海の生き物。その当時の我が関心には箸にも棒にも引っかかからなかったこの生物に、最近にわかに興味が出てきたのです。やれやれ。たまたま仕事で、不思議な水中撮影海底動物ばかりを写真にとって毎年カレンダーにしている人の仕事を受けていて、その人の撮った写真を見ていると、そのウミウシがあまりにも可愛かったのです。なんとキュートなんだろうか。思わず、ハッとしてしばらく眺めいっていると、不思議に幸せな気分になってくるではありませんか。それで見聞を広めようと、ネットでウミウシについてあれこれ調べていたのですが、まさに百花繚乱の世界。様々なウミウシがいて、ただただ見とれるばかり。まあ、別にウミウシに限らず、海底にはこんな可愛い生き物たちが生息しているんだねと、思わずこの素敵ワールドに身を乗り出していたのであります。

さて、小林くんのお兄さんじゃないけれど、そんなウミウシを研究したいなあなどと、半ば冗談みたいに呟いてしまいましたが、連中を直接見る機会はなかなかないようで、写真や動画でしか見れないのが現状。それでも十分楽しめますけどね。とにかく色鮮やかで、実に個性的な生物です。なんでも、それゆえに毒を持っているのだとか。綺麗なものには毒がある。まあそうじゃなきゃ、一方的に捕食されるばかりだから、彼らも進化の途中で、色々考えた結果なんだろうな。

いわゆる海のナメクジなんて言われているけれど、陸のナメクジが忌み嫌われているのとは対照的に、まずは人を見た目で魅了するウミウシくんたちを、陸のナメクジたちもちょっとは見習って進化すりゃ、あんなに嫌われないで済むのになあなんて思ったり。同じ軟体動物なのに、見る目が全然違います。それにしても世界には数千種類近くあるというから、素人が語れるのはあくまでもぱっと見の外見だけの魅力だけ。でもその名前からもこれって実に乙女チックだなとも思リしますよね。何しろ、イチゴミルクウミウシだの、シンデレラウミウシだの、シロウサギウミシダのと、御伽の国のクリチャーのようなウミウシがゴロゴロいるんですから。もっとも、誰でも簡単に撮影したりできるようなシロモノでもないので、あくまでも想像の中だけでいて、それをこうして可愛いと思っているうちが幸せかも。間違って生涯をウミウシに捧げてしまうのも、それはそれでどうなんだろうなあと思ったりしますからね。

◆越中富山はええとこやっちゃ

両親二人が共に富山出身だったという縁があって、こどもの頃から毎年夏、冬と年二回律儀にも田舎詣でを欠かさなかった自分にとって、この富山という日本海に面した北陸の都市は、第二の故郷と呼んでもさしつかえがないほど馴染み深く実に想い入れある土地なのです。
母方は鋳物の町高岡、父方はチューリップで有名な砺波。。ちなみに高岡には富山市内にまで伸びた路面電車に子供の頃からくすぐられており、一方砺波の家はカイニョ、通称屋敷林によって家が囲まれた、独自の文化が根付いているところで、ややもすれば神話性すらおびた景観に見取れるばかりです。

富山とひとことでいっても海沿い山沿い、石川寄り、新潟寄りとあって隅々まで知っているというわけではないのですが、とりわけこの二つの都市にはとても思い入れがあるのです。
一般に富山といえば、なんといっても魚どころ。さかなが美味しい。でもさかなだけじゃありません。食べ物が総じて旨いのです。なによりすべての基準になる水が旨いのは特筆すべきこと。その上で、なんといっても人柄ですね、人の魅力。これは別に富山に限ったことではないとは思うけれども、地方の特有の人なつっこさが、こどもの頃から染みついているのです。その最たるものが言葉の魅力。富山弁というのは実に独特で、個性が強い言語のひとつだと思うのです。「な〜ん」だとか「〜ちゃ」という響きがその親しみを体現しているように、なんでもないひとことについひきこまれてしまうのですね。とりわけ、T叔母さんのマシンガン伏木節にはうならされたものです。もとより、おしゃべり好きな質の上に、表情豊かな富山弁を駆使してとんでくる言葉の魔術をすり込まれてきたのです。すでに亡くなって久しいのですが、ときおり、思いだしてニヤニヤする自分がいるのです。富山のことを書くといくらでも書けてしまうので、いったんこのぐらいにしておきます。

ちなみに我が敬愛する詩人瀧口修造もまた富山出身。勝手に縁を感じてしまっているわけですが、将来、東京を離れることがあれば、生まれ育った大阪よりも富山に住んでみたい、そんな思いもあるぐらいですね。

◆うなぎの寝床でドジョウ三昧

鰻ってやっぱり美味しいですよね。庶民にとっちゃご馳走です。土用といえばその鰻。毎年夏の暑い時期にうな重を食べたくなるものです。ただ、国産のうなぎの旬は秋だと聞きますね。脂のノリが違うんだとか。ある意味、土用のうなぎという洗脳によって、うなぎの食文化が保たれているのかもしれません。一口にうなぎといっても、関西の方ではタレをつけない白焼き、これをわさび醤油でいただくのもオツですし、名古屋の方ではひつまぶし、つまりは細く切ってお茶漬けにしていただく、こちらもなかなかアジであります。別に、うなぎはこうじゃなくちゃという決まりは持っていません。ただしやっぱり安心の国内産が望ましい。そうなるとやはり値がはりますね。それはしょうがないけれど。

さて、話は変わりますが、うなぎの寝床という言葉をご存知でしょうか。いわば細長い家屋のことでして、つまりはあの細身のうなぎにならいてそのような言い方をするようになったのですね。富山の母方の実家の家はまさにこのうなぎの寝床のような作りで、縦に長い一軒家でありました。休みのごとに帰省していたこともあり、実に思い出があるのですが、最後の砦だったT叔母さんも他界し、家を守るものがいなくなって数年前に手放すことになり、時折残念な思いで昔を懐かしむことがあります。ここでうなぎをいただいた記憶は全くないのですが、近所にドジョウを甘辛いタレで焼いた蒲焼きなるものが名物で売られており、それをちょくちょくいただいた記憶があるのです。大きさの大小こそあれ、まあそう違ってもいないようにも見えるこのドジョウとうなぎ、流石に味は全然ちがうのです。ドジョウはちょっと苦い。でも酒のつまみには最高ですね。ドジョウがうなぎレベルで美味しかったら、もっとドジョウの扱いは変わっていたでしょうね。とはいえ、ドジョウもドジョウで悪くはない。どちらかといえば庶民の味方はドジョウに軍配か。そんなこんなで暑い夏が来るとふとドジョウの蒲焼きも食べたくなりますね。

◆牛を求めて、自分に出会う

ある時、禅の思想にハマった時期がありました。鈴木大拙の本なんかをよく読んでいましたね。でも読めば読むほど、結局は本やその思想からも離れることが真理だということに気づかされるだけなんですね。アンビバレンツだなあ、禅思想ってのは。それを図で説明したのが『十牛図』というやつです。飼っていた牛が逃げて、その牛を尋ね探すという「尋牛(じんぎゅう)」から始まって、すでに牛などどこにも関係なくて、最後は人の世にでて普通に生きる「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」で終わります。まあ一つ一つを解説はしませんが、大まかにいうなら、これは自分探しというテーマに基づく、基本真理の流れを表しているんです。探した牛が見つかって、それに乗って戻ってくるんですが、次の七図で、「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)」といって牛そのものを忘れてただあるがままに生きる境地にたどり着く、ってことになる。そこで初めて悟りの帰結があって、そこからはもうそれに沿って生きてゆくだけなんですね。まあ、深いですよ、これは。理解するのは一生を生きて初めてわかるかわからないか、そのぐらいのレベルの話をあたかも簡単に説明してくれているのです。
まあ、難しく考えるとキリがないので、とにかく、自分に向き合って、自分を求めよ、というところなんです。すべてはそこから始まるのだと。僕にとって『十牛図』は、一つの生き方バイブルですね。

◆おふくろの味を捻り出してみる

八十を超え、さすがにひとりでの生活に支障を来した母親は、現在とある施設のお世話になっている。
おここまで奇跡的に身体だけはなぜかタフでやってきたこの老婆も、いよいよ年貢の納め時か。などと他人のことのように書いてはいるが、いくつになっても親は親、子は子。それがこの世の人間のならい。とりわけ、男子にとっては最初に愛情を感じた対象というものへの思いは複雑ながら普遍なるものだと思う。
そんな母親の手料理を食べたい、などとは正直今は思わないのだが、常に不器用で、料理なんざにもとんと無頓着であった母親も、自分が子供の頃にはそれなりに台所を切り盛りしていた姿は覚えているし、気の利いたものこそなかったが、なんなら和洋にわたりレパトリーも一通りあった気はする。

で、そんなお袋の味を無理に蒸し返すとすれば「イワシのつみれ汁」と答える。イワシをすり鉢で練りながら、山芋などを加え、それなりのものが食卓に上がっていたはずだ。叶うのであれば、あれをリクエストしたいと思うのだが、手足をもがれた老雀には敷居が高い。いやはや、たとえインスタントであっても今さら自炊できない人間に望むのは酷であろう。幸い、自分はそこから進化させた自前のつみれ汁を、さほど労を要せずとも用意することができる。それは別段イワシでなくとも、アジやサバでもなかなかのものができてしまうのだ。お袋の味を再現しているのかはわからないが、少なくとも、無意識下において、母の味付けが元にはなっているのだろう。お袋の味を望むことはできないにしても、息子の味ぐらいは食べさせてやりたいという思いがどこかにある今日この頃である。

◆アンフラマンスを告白します

アンフラマンスということばがある。知っている人は相当な美術通である。現代美術界において二十世紀最大のトリックスター、マルセル・デュシャンの作り出した造語で“極薄”なんて風に訳されている。アンフラマンスとはなんぞや、と言われても、なかなか簡単に説明できないのだが、デュシャン本人のメモに、「(ヒトがたったばかりの)座席のぬくもりは極薄である。」とある。うん、これならなんとなくわかる気がしてくる。この感覚は漠然といつも感じてきたことで、座席についたとき、うむ、これがアンフラマンスかあ、などととっさにうなってしまうことがある。
そして席を離れるときにも、人は皆このアンフラマンスにしばしの別れを告げるってわけね。
だって、席を離れると極薄は跡形なく消えてしまっているんだから。
そんな変な意識が頭の中の去来している。マジックみたい不可思議さ。なんだろう、この得体の知れない心地の良さは。そういえば、待機中に残る香水の匂いや服についたタバコの匂いなども、アンフラマンスだろうし、ライブ会場を離れるときに、耳の奥に残る残響のようなものもそうかもしれない。