Illust&Drawing

一枚の絵画とは、久しいあいだ人に住まわれなかった家に、未知の人間がいきなり到着したのにも比すべき事件であるべきだ


『視覚の革命』アラン・ジュフロワ (西永良成訳・晶文社)

はじめに衝動ありき。不毛とはおさらばして、さあ豊かな御伽の国への一歩を踏み出そう。

絵である以上、見て感じることがすべてなのは言うまでもない。が、あえて、その絵について、自分なりに培ってきた思いがある。よってそれを言葉で綴ってみるとしよう。しばらくのおつきあいを願いたい。

絵心なるものがあるとしてだ、いつどこでその絵心とやらが芽生えたのか、そして身についたのかは、正直なところ定かではないのだ。おそらく、十代の自分に、絵の一つでも描いてみな、といわれたところで、ロクでもないものが出来上がってくるだけのことである。ためらいと黙考の中で、まずもって筆は1mmとてスムーズに進まないはずである。間違いない。つまりは、絵は思考の果てに生まれるものでは決してないということである。一つ言えるのは、音楽というものに一つの啓示を受け、そして文化というものに目覚めていったことが、後々絵心を発揮するのに一翼を担ったのだろうと推測する。

YMOを中心としたテクノポップやニューウェイブという音楽に携わっている人たちは、アートに対して意識の高い人たちが軒並み顔を揃えていたはずだ。彼らの音を聴くことは、同時にアートに触れることであり、それはジャケットワーク一つとっても十分に汲み取りうる刺激が溢れんばかりに漂っていた。そう言った時代感覚というものを、アーティストたちはどこかで暗黙に共有していたはずなのだ。実に魅惑的なアートへの感性が、音楽そのものの魅力を支えていたと言ってもいい。そこから同時にアートそのものと抱き合わせて、対の関心を抱き、次第に慣れ親しんで行くうちに、自分にもできるんじゃないだろうか? などという軽い気持ちを抱くに至ったのは自然な流れだったに違いない。幸い、世間ではヘタウマなどというジャンルが横行していた頃で、コンピューターという急進的な夢の道具にも出会い、技術と感覚が見事にマッチする時代へと流れてゆくうちに、とにかく表現への敷居は思いの外低かったことが幸いだった。全てはこうした偶然の賜物であり、時代の恩恵に過ぎない。が、何はともあれ、そうして幸運によってジャンルやメディアの垣根は簡単に超えられた。そこからは文学や映画をも含めて、滋養となって消化されたアートというものが、自分の感覚の中に深く浸透していったのだった。

最初に本格的に取り組んだ絵の初動は、アカデミックなものなどでは到底なかった。稚拙で取るに足らないものばかりだった。何より、自分がいちばんのキュレーターとして、絶えずそのアウトプットに向き合ってきたのだが、諦めのいい人間なら、とっくにそんな稚拙な野望は消え去っていたかもしれない。当初は、表現を始めたことだけに満足してしまって、継続がままならないこともあると感じていた。だが、それは全く心杞憂だった。むしろ、日々の空いた時間を、何かに取り憑かれたように、そればかりに費やしていくうちに、作品は勝手に量産されていった。好きこそ物の上手なれ、とはよく言ったもので、実に幸福な関係を結べていたのは、何か特別な導きがあったからかもしれない。しかし、ある程度、自分が満足するレベルのものを生み出すには、おそらく膨大な時間と量を費やさねばならなかったことは、言うまでもない、ローマは1日してならず、というのもまた本質だ。

さて、ここでは大まかに言って、二つの表現でイラストとドローイングを分けている。アナログとデジタルである。鉛筆やペンでもって直接的に紙に描いたものと、パソコンを立ち上げ、ソフトを使って絵のようなものを描いた、という違いに過ぎない。もちろん、あくまでも方法論による違いだけで、表現としての上下はない。物理的な制約はもちろんある。アナログのイラストは、手を進めなければコンマ数ミリたりとも生まれたりはしない。つまりは性行為無くして、子供が生まれないのと同じである。ペダルをこがない限り前へ進めぬ自転車と同じ理屈である。一方のデジタルは、パソコンやソフトがないと始まらないが、場合によっては、アナログで絵を書き上げるよりは、比較的簡単に生みだせるということがある。そうした違いは確かにあるのだが、デジタルといっても、まずはPCやソフトを操る技術がなくてはならないし、逆にいえば、クオリティさえ望まないのであれば、紙と鉛筆があれば、絵そのものは無限に生まれ落ちる可能性をも秘めているのだ。あえて、共通項を見出すとすれば、“絵を描きたいかどうか“、ただその一点に集約されるだけのことである。その意思がなければ、デジタルもアナログもないのである。そのことはあらかじめ言っておかねばならない。

はじめに衝動ありき。誰も絵など描かなくても生きてゆける。しかし、絵が描けると言うことの豊かさはなんだろうか。真っ白なキャンバスの上に、サラサラと何か楽しげなことが起き始めることの不思議さ、そして高揚感。大空にかかる虹、青い空に浮かぶ雲、海原のさざなみ。なんでも構わないが、どれ一つとって人間には及ぶことのない力が働いて生まれる「絵」そのものだ。何一つ気負うことはない。まずは目の前にある世界を愛して、見つめて、それを自分の手中に収めんとして、開放すれば良いのだ。それが落書きであれなんであれ、不毛とはおさらばして、豊かな御伽の国へ、あなたは招かれたことの証なのだから。

▶︎Afternoon Opium

アナログ的手法で産み落とされたドローイング集。

▶︎Illustchop

アナログ的手法で産み落とされたドローイング集をデジタルで処理したシリーズ

▶︎シイルレアリスム

アナログ的手法で産み落とされたドローイングに色がついたバージョン。

▶︎Land-ex-Ape

デジタルアプリケーションによって捻出されて心の風景画シリーズ。

▶︎キャラアクターズ

簡単な図形の組み合わせだけで創造されたデザインキャラクターたちがそれぞれの個性を演じる、その名もキャラアクターエージェントの紹介。

▶︎カオコズミック

モデルもなく、対象もない。ただ単に墨で顔を描いただけのシリーズ。

▶︎悪あ描き

色鉛筆やパステルで絵のモチーフ、アイデアのメモがわりに始めたシリーズ