ちょっとちょっと七

クリスタンとジズー(春の夢)

あんなにも図々しかった雪のカーペットも春のイキのいい回収業者たちのおかげですっかりと姿を消しました。春めいたうららかな小川のせせらぎが聴こえ、光と香りの宝石に満ちた木々の間には、春の到来を待ち侘びた小鳥たちが小気味よくハミング。それにつられるように花たちも長い眠りからはたと睫を開いて、微笑みのハーモニーを奏でています。どうしようもない寒さから解放された喜びが、勢い良く弾け飛ぶ色とりどりの花粉に託されて、鮮やかにこの一帯の野山を彩っています。

 こうして春が視界に満遍なく描きこまれて行くのを見るというのは誰だって愉しいことです。でも、まだどこかに春の届かない所が残っていると、なんとかしてこの麗しい季節の到来を少しでも早く知らせてあげたい、そんな気分に駆られるというのも自然な気持ちでしょう。

 ほら、みてみると目に飛び込んでくるのは、時折溜息をつき、目をしばたかせて、何やらモノ想いに耽っている女の子ジズーではありませんか。まだ冬の憂いを目に宿しているかに見えるそんな彼女に、春を告げるかのようにさっと吹き抜ける一陣の風。

 そこに「ねえ、遊びに行こうよ」と声をかける野うさぎ。でも彼女の冬は想った以上に長くて重いとみえ、「う~ん、まだそんな気分じゃないの」と頬杖をつくのでした。
 隣では、お祭り好きな動物たちがお花見でご機嫌な音頭に合わせて小躍りしています。狸の舞、狐の百面相、カラスの咽自慢、リスの曲芸。人間さまに連れられた猫はうつらうつら、犬はヘラヘラ。とはいえ彼らなりに春の訪れに心から酔しれてのことです。遠く南の空を見つめながら、ひとり陰を被ってふさいでいるジズーとは、全くもって好対照といったところです。

 そんな彼女が待っているのは、年がら年中旅に出ていて季節の間にしか姿を見せない恋人のクリスタンでした。つまり季節の変わり目とともに現われる時報のような彼がやってくるまでは、ジズーには春がこないと言うわけなのです。愛しい人への気持ち、「もうとっくに姿を見せてもくれてもいいころなのに」という気持ちが彼女に憂いの頭巾を被せていたのです。

 そこへ通りかかったのは、楽器片手の仲睦まじい二人組、手のひらサイズのジブラとカプラでした。
「やあ、君。そこで何をしてるんだい?」と元気のいいジブラが屈託なく話し掛けます。
「別に……」とどうも元気のないジズー。
「何か悩みごとでもあるの?」とこちらは迷いなどかけらもないカプラが声を掛けます。
「う~ん、何でもないの」と目を伏せうつ向くジズー。彼女とは対照的に人なつっこく、無邪気な二人は、ジズーをみつけて、何やら得意の演奏を披露してくれるというのです。
「じゃあ、今から君のために僕たちの音楽を聞かせてあげるよ」そうジブラが言うと、この小さな音楽家たちは、手持ちのヴァイオリンとマンドリンで麗しい、しかも弾けるようなメロディを奏で始めたのです。するとどうでしょう、これが魔法の音楽といったような不思議な響きで、ジズーのあれほどまでに重かった表情を嘘のようにするりと解き放って、「ブラヴォー! まあ、なんて素敵な音楽なのかしら」と、想わず手のほうで勝手に惜しみなく拍手するほどにジズーのココロに直に響いたのです。
「今のは『春のカナタ』っていう曲なんだよ。これ、演奏するの初めてなんだよ」とジブラはトランペットのような鼻先を空の方に幾分上げ気味に得意げに言いました。
「でもまだもう少し練習が必要だと思うけど」とカプラはジブラに言いました。
「そうかな、僕には今ので、完璧だと思えるけどね」とジブラは反論するのでした。
「だめよ、そんなことじゃ」
「ったく、もう、カプラったらいつだってアバウトなんだから」

ヤレヤレ、こうして喧嘩するのも仲のいい証拠。それこそ、相手がいなければ話にもならないのですものね。そんな二人のやりとりも何のその、「わたし、考えてみると、音楽なんてもう随分と聞いていなかったわ」とジズーは石を投げ入れられた池のように、大きな目をぱちくりさせて言いました。
「喜んでもらえたなら嬉しいよ」とジブラ。
「きっとそのうちいいことがあるわよ」とカプラ。
「うん。あたし何だか素敵な気分よ!」ジズーは胸をはって大きく深呼吸をしました。
 するとスカートがめくれて、「キャァ!」とカプラが叫びました。
「おいおい、あんまり大きく吸い込まないでくれよな、君とは違ってだね、僕たちジュニアコットン級なんだからさ」と、こちらも綿のように軽いジブラが彼女に言いました。
「ごめんなさい。あなたたちがそんなに軽かったなんてしらなかったのよ」とジズーは素直に二人に謝りました。
「さぁて、僕らはこれからピクニックに行くんだ」と言って、ジブラは嬉しそうに眉を交互に動かしました。
「まあ、それはいいわね。いったいどこに行くの?」とジズーが訊くと
「それは教えられないわよ」と勝ち気なカプラが瞬きもせずに言いました。
「不思議の国巡りさ」とジブラはちょっと茶目っ気たっぷりにウインクをして、うっかりその行き先をジズーにばらしてしまいました。
「へぇ、わたしも行ってみたいな」とジズーはなんだか二人がとても羨ましく思えてつい口走りました。
「だめよ、そこは恋人同伴じゃないと入れないんだもの」とカプラは早口で言いうもので「あら、わたしにだって……」ジズーは急に声が小さくなりました。
「彼、どこにいるの?」とカプラは少し意地悪い表情を浮かべました。
「……今は遠くにいるの、旅に出ているから」とジズーは再び悲しそうにつぶやきました。
「ふ~ん、そうなの。それじゃ仕方がないわね。今度は二人いっしょのときを見つけて誘いにくるわよ」とカプラは再び優しい微笑みを投げ掛けました。
「じゃあ、またね。元気でね、幸せを願ってるよ」と二人はジズーに爽やかな別れを告げて、泡のように一瞬に弾けて消えてしまいました。何ともその動作の速いこと速いこと!
 ひとり取り残されたジズーは、なんだか驚く暇もない、といった表情を見せ本当にクリスタンが恋しくなりました。
「ああ、本当にクリスタンはどうしたのかしら」と、センチな眩暈を覚えながら、彼女は不安からいてもたってもいられなくなったのか、我を忘れていくつもの桃色の丘を裸足で疾風のごとく駆け抜けました。どのぐらい勢いよく走ったのでしょう、その心臓の狂ったようなドキドキしている鼓動が簡単に止まりそうにもありません。波が足元に気持ちよく寄せては返します。やってきたのは、去年の冬の初めにクリスタンと別れた砂浜というわけでした。
 ハア、ハア、ハア……

 誰もいない昼下がりの砂浜で、潮風はジズーの髪をまるでハープのように奏でたり、肩を何度も叩いたりします。彼女は時折太陽が彼をやき殺したんじゃないか、突風が羽を折曲げてしまったんじゃないか、ワシが彼にひどい仕打ちでもしたんじゃないか、などと恐ろしい想像で胸がざわざわするのでした。その時です。波が急に高くなって、男性的なざわめきで勢いよく彼女の足元に押し寄せたのです。振り返るとまるで子供のような純粋な震えをもった影が彼女に近づいていました。

「だ、だれなの、あなたは」ジズーは少し声を震わせ脅えた表情で言いました。
「僕だよ、僕」とまるで柔らかなシルクの声質が彼女の不安を取り去りました。その声は紛れもなく彼、クリスタンのものだったのです。
「ど、どこにいるの、クリスタン」彼女は回りをきょろきょろと犬のように見回しました。
「ここだよ、ここさ」どうやら声はその長くすらりと伸びた影が発しているようでした。砂が風に巻き上げられて、削り取られていきますが、影は増えも減りもせずその場に佇んでいました。
「ねえクリスタン、どうしてあなたは姿を見せてくれないの?」彼女は戸惑いながら影に尋ねました。
「ここへ来るまでに、ずいぶんいろんなことがあったんだよ…」といってしばらく黙ったままのクリスタン。
「いろんなこと?」ジズーは恐る恐る訊ねました。
「ああ、ほんとにいろんなことだ。だからたくさん辛いことを乗り越えなければならなかったんだ。その困難をひとつひとつ払いのけているうちに、すっかり僕の身体、透き通ってしまったわけなんだ」
 そこには透明な衣を身に付けた一人の男の哀愁がありました。
「じゃあ、まだ肉体はあるのね、なくなったといっても………」
 彼女は冷静さを失わないようにと、しっかりとその影を見つめて話し掛けるのでした。
「そうだとも、ただ見えないだけなんだよ、でも君には見えるはずだろう?」
 そう言うと影は元気な小馬のように砂浜を駆け回りました。足跡が砂の上にサクサクと彼の存在を刻むのを見て、彼女はそれが紛れもなく彼自身のものであることを確信するのでした。透明に包まれた彼自身の肉体を抱きしめる彼女。それはまるで一足早い夏の潮風のように殼しく、大理石のようにひんやりとした感触でした。
「痛いよ、羽が折れてしまうよ」というと、次には彼はくすぐったそうに笑い出しました。
「ごめんなさい」でもジズーの顔も笑っているのです。

 それは、一つの季節の終わりとともに訪れた春のうららかな陽の中で、厳しい時を乗り越えた愛が、再び磁石のように引きあう美しいひととき、とでもいう感じでした。そんなふたりの波長を敏感に感じ取ったのか、宝石のような海面の光の戯れが、まるで二人を祝福するかのようにキラキラと輝きを増して、そして規則正しく繰り返す波のざわめきが、時間を忘れて彼らを見守るのでした。
「これ」、と出し抜けに彼は手品師がよくやる手口で隠し持っていた包みを出すと、彼女はそれをそっと受け取りました。
「まあ、何かしら」と彼女はその透明な包みの透明な紐をゆっくり解きました。
「まあ素敵だわ!」彼女が手にしたのはハート型をした光る貝殻でした。それは、彼が海で遭難したときに偶然見つけた貴重な貝殻なのだそうです。それはつるつるしていてとても肌触りのいい薄い桃色の殻をした貝殻でした。それを手にとってうっとりとした表情で目を閉じる彼女。目を開けているのがつらい程に光線を放つその貝殻は、まぶたをすり抜けて彼女のまぶたの暗室に像を感光するのでした。クリスタンの濡れた微笑み、燃えるような髪、唇。そして美しい肉体の輪郭をくっきりと浮かび上がらせるのでした。それにジブラとカプラのあの忘れがたい旋律が波のざわめきに混じって、微かに聞こえてくるのです。もうクリスタンを離したくはありませんでした。厚い胸板を、頬で感じている幸せそうなジズー。
「なんて心地いいんでしょう、ああ失いたくないこの時間!」としばしうっとりとした表情を浮かべるジズー。口元が潮風で緩んでしまいそうです。けれど悲しいかな、ふとした拍子でいったん目を開いてしまうや、影の姿も眩いばかりの光源も瞬く間に消え去ってしまったのです。なんという残酷な現実!

 貝殻はもう光ってはいませんでした。クリスタンは再びまた、あの忙しい空の忙しい風をマント代わりに纒って旅に出たのでしょうか? 何をそんなにも慌てて………ジズーには言葉がありません。そして、あれはもう二度とは戻っては来ない感触なのでしょうか? 再び目を閉じてももはや何も映らず、それはまるでお金の切れた展望台の双眼鏡のように、ただ暗やみしか見せてはくれませんでした。ジズーはただ貝殻を握りしめて、波打ち際にじっと立ち尽くすのでした。

 なぜだか涙は出ませんでした。そのことがいっそう彼女を悲しそうにみせるのです。でも不思議に、あの感覚は消えないのです。温もり………時間にしてみればわずかなものだったけれど、ジズーは幸福でした。なぜなら、彼の想いが心の余白に素敵な絵を描き残していてくれたからです。そしてもう一度それを振り返るようにゆっくりと海水を含んだ砂を踏みしめながら、波沿いに歩き始めるのでした。そして、おそまきながらうっすらとサクラ色に染まったジズーの頬を、春の黄昏の光線が、さらに色鮮やかに染め上げるのでした。