SCLUPTURE

顔の喪失という、ぼくの運命自体が、すこしも例外的なことではなく、むしろ現代人に共通した運命だったのではあるまいか? 

安部公房「他人の顔」より

カオスギャラリー

自分を「なぜ」で被うことなかれ主義

◆顔彫刻シリーズ[Don’t mask me why]

素材:トナー再生紙パックに石膏/アルミホイル/ミクストメディア 

コピー機のトナーカートリッジを保護している再生紙パックをご存知だろうか? 
材質は、玉子パックなどに使われているあのゴツゴツした素材を思い出していただきたい。それがあるとき、顔に見えた。どう見ても顔なのだ。そこから、内なる衝動は、石膏粘土を盛り付けて人の顔を形作ってしまった。仮面の告白というわけである。そこに金属の質感を得ようと、今度はアルミホイル武装した仮面へしつらえ、彩色を施し完成とあいなった。

泥遊び高じるところの粘土との戯れ。手が汚れ、場は荒れる。爪の粘土がなかなか落ちない。が、そのぶん手作業はときに気分をリラックスさせる。
ことさら、表情を作ることは楽しいものだ。まるで生命を付与する神々の気持ちになる。ここには原始的カオスと同時に有機的な精神の充足があらわれているのではないだろうか。
子供のときに、どれほど砂遊び、泥遊びを興じて楽しんだことだろうか、そんな思いを無意識に思い返しているのかもしれない。それに似て、実に素直な気分で粘土に対峙した成果である。

そうはいっても、じつのところ、大人に成ると物事は簡単にはそうはいかないものである。人形に命を吹き込むという話は聞いたことがあるが、仮面を被って生きてはいても、実際の仮面をつくるなど及びもしないだろう。
いわゆる「癒し」の工程となったためか、その分対象物のほうは苦渋に満ちた外観を呈しているようにも見える。この地獄の業火に歪む顔、あるいは、天を放棄したような表情に、わが魂の荒みを感じずにはいられない。いや、むしろ逆でその荒みを洗い流してくれるようなカタルシスがあった。

ここは地上の楽園である。安息がある。創造は楽園を建設する資本なのだ。
彫刻作業そのものが、子供たちの泥遊び、あるいは老人たちの土いじり同様、一種のヒーリングとなり、精神の浄化の一翼を担ったのは偶然ではないだろう。
この面持ちたちに日々とりかこまれていると、すぐに自分というものに立ち返ることができる。つまるところ、仮面の喪失から、真の仮面への回帰、すなわち己の素の顔を取り戻すことができるのである。そうして、自分自身精神的バランスを保つことができるようになった。
これら仮面たちは、そうしたそのプロセスを見守っている神々の代理なのである。