ちょっとちょっと六

天使の病

 外はあいにくの雨混じりの空模様でした。その斜めの軌道に目をやると、それまで視界に埋没していた、かの半透明な鳥籠がおぼろげに浮び上っています。その柵に雫が生まれ集い、そして伝い落ちるといった様子で、鈍い光線をつつましやかに取り込んではぼんやりと浮かんでいるのが見えます。部屋という空間の闇を不完全にしようとする窓、その矩形の光の枠内に、さらに繊細に浮び上がった鳥篭の存在によって、絶えず視線はその外界に誘導されてしまうのでした。

 よく見るとそこには、自らの震えを、その柔らかな羽毛のうちに忍ばせてじっとこちらを伺っている鳥が見えます。ずいぶんと傷を負っているようで、ところどころが強く陰を帯びたその身体、ちょっとした電気と電気のもつれのような痛々しさが伝わるようです。

 まさかこの鳥がかつて愛していたガブリエッラであることに誰も気付きはしません。長い間の不在は彼女を一羽の鳥に変えて、またガブリエルの元に帰したのでした。ガブリエルはそのことを疑うことなく解し素直に歓びました。何も告げずに姿を消した彼女は、またなにも告げずに戻ってきて、その場所に澄まし顔で留まっています、ガブリエルの心配もよそに。彼女の血は以前と同じように赤く、そして熱を帯びた血管を伸縮させています。でも、その落ち着き様が何処か魔的に映るのは気のせいでしょうか。

 まるで記憶の不可思議な作用によって海にでも通じているようなガブリエルの心。それはたいてい曇天の砂浜なのですが、傷を癒すための疑似空間として、また内なる劇場として彼はそれをしばし利用しているのでした。
 彼女が彼の心に置きざりにしたままの残像を、遠く海へとほうり投げては、ガブリエルは砂浜で密かに彼女への想いを船の往来になぞらえてそれを見ていたのです。その間一体幾せきもの船舶が通り過ぎたことでしょうか。時には想いがそのまま砂にのめり込むような時もありました。波は感傷の痛手を撫でるようにして押し寄せ想いを鎮めました。強まる荒波の中にふらふらと引き寄せられるような時もありました。その不透明に濁った海水に滲むような想いの苦しさ。あの何とも言えぬ感触、心のざわめきを知る人はありません。
 ある時、彼は流れるままの、次のような詩を彼女に送りました。 

  いつ晴れるのだろうか 空
  あおげば水の粒が寡黙に大地へ一直線。
  誰かが放った銃声が雨足に紛れ込むようにして耳によりかかってくる気がする
  その軌道にかつてのように些細な眩暈がしてよろめくのはなぜ?
  おしえてほしい ああ天使よ

  わたしは夜を、秘密のページに閉じ込めた 
  そして闇にひとり卵のように立っている
  孤独をつつむ空気の冷たさ
  朝、その瞬きは何に似せようと繰り返されるのか
  誰にもわからなかった

  わたしを見る鳥の瞳孔は閉じられて、また開かれる 
  ほんとうに美しいまばたき
  でも、誰のために?何のために?
  誰にもわからなかった  

 これは朝方夢の中で彼女が訪れた日に書いた詩なのです。波がいとも簡単にそれらをさらって行きました。
 その頃のガブリエルの心の荒びようは尋常ではありませんでした。何しろ前方を照らし出す灯火が、ある日突然消えてしまったのですから。暗やみで光を模索するときの絶望に満ちたあがきは、果たして彼女に届いていたのでしょうか?

 記憶というものは実に鮮明な曖昧さと言うやつに包まれるものです。ああ、霧の中のガブリエルよ! あれは本当に身の毛もよだつ出来事でしたから、そんな記憶なら曖昧になって行く方がいいのかも知れません。
 やはりガブリエルを見いだすのは例の砂浜です。砂は海水に随分と優しく愛撫を受けたあととみえ官悩的にたたずんでいます。風は弱くもなく、また強くもありません。ガブリエルは彼女の不在を負うがゆえ、魂の空き地にたたずんで、心臓が時々苦しくなるのです。そうして夜が時を支配するまで、じっと過ごすことが多々ありました。また、森に出向いて夜毎森林の中、暗やみに抱きかかえられるようにしてさまよい歩くこともありました。

 カラスたちは容赦なく残酷なまなざしを投げつけました。気だるい風は旋毛のように彼を取り巻き、時には菩薩のように、時には小悪魔のように偽の慰めで微笑みかけるのでした。そうです、ガブリエッラは天使にそっくりな悪魔に連れ去られたのです、ひどい嵐の晩に。
 大時計は時刻を刻むのを止め、仮死に瀕した卒倒ぶりで周りのものを心配させました。それまでの数日間、ガブリエッラの挙動はいつもとは違っていました。妙にそわそわして、ガブリエルには、《なにもかもわからなくなったの。わたし、を追わないでほしいの。すべてを消しされるものなら》などと口走ったものですから、それはてっきり例の彼女の“病”だと、軽率に放置していたものでした。

 その後、アフロディテ、つまりは美の化身であったガブリエッラの存在は、叫びとささやきのうちに、全くの唐突さで、血を流すことさえ恐れずに、その鳥籠から姿を消していたのです。彼女不在の鳥籠の、あのたとえ様もない揺れ方は、まるで心臓をネジでこれ以上ないほどにきつく締め上げるようなものでした。
 ところがその過程を知るよしもない彼女は、やはりガブリエルのことを忘れられなかったのでしょうか。ふたたび、その声を聴くために、その澄んだ瞳に写し出されるために、羽を、背中を、肩をやさしく撫でてもらうために、彼女は沈黙のうちに彼の部屋の扉をノックしたのです。

 天使の気まぐれさを十二分に知り尽くしているはずのガブリエルでさえ、やはりそのダメージは相当深かったとみえ、彼女の不在の傷口は今もなお癒えないままなのです。けれども、そんな素ぶりを見せずに、二人の再会は二人を柔らかな光線で包むのでした。彼は彼女に新鮮な水と、瑞々しい真っ赤な薔薇の花びらを用意し、適度に食べやすく刻んで手であげました。そうして緩やかに過去の時間がよみがえり、彼女は以前の微笑みを彼に投げかえし、ことは何事もなかったかのようでした。あの身を切るような煩悶の日々はどこかに大事にしまい込まれまたのでしょうか。

 夜になれば、鳥籠からベッドに舞い降りて、ガブリエッラはひとりの女のような現身になってガブリエルの前に現われるのです。《わたしの分身、わたしの薔薇、わたしの天使》と彼女はつぶやきました。彼女の瞳は濡れていました。ガブリエルは見て見ぬ振りをしました。いろんな意味でもう涙はたくさんだったのです。
 そして彼女は麗しい声で夜の歌を歌い始めるのです。

 夜、わたしは苦しくても自由を
 その全ての肉体に呼び込まなければさらに苦しむ
 そしてあなたを、わたしのもう一つの魂に思いをはせる
 わたしの生まれた泡が光に包まれるとき
 月よ、わたしの血液の流れを一番知っているあなたが微笑む
 あなたの火を盗んで、わたしはそれで焼き殺されても構わない
 あなたに、この首をきつく締め上げられたい
 死の縁で抱きすくめるときのように

 彼女は今宵、満月の力で発狂せんばかりの緊張を帯びています。ガブリエルはそっと肩に手を置いて彼女の震えと興奮を実感し、その閉じた瞼の下で想いを駆せるのです。
 《もう僕を苦しめないで、苦しめないで……すべてを忘れよう、今宵限りで》
 月を取り巻く暗雲がすっと消えて行く瞬間です。
 月光の下で、彼女の肉体は、この世のものとは到底思えない美しい輝きに満ちています。

 しばらくして部屋は水に満たされているような重力の支配下に置かれ、そのような中、彼女は唇を半ば開き気味に、その長い睫を不動のままに、豊かな髪から形のいい耳を覗かせてすっかりと眠りに落ちていました。ガブリエルは朝が来るのが少し怖くなりました。というのも、自然の光のもとでは彼女がそのままの姿で生き延びれないことを知っていたのです。何よりも、再び目の前から悪魔のマントを引きずる音共々、消えてしまったら、などと考えたからです。ガブリエッラは確かに、堕天使ルシフェリオの微笑みが、かつてガブリエルの瞳にはっきりと焼き付けられていたことを思い出したのです。ガブリエルはその復讐を、秘かに言葉(呪文といってもいいでしょう)に託してつぶやいたものです。

《悪魔よ、お前はこの透明の名の前に封印されるがいい。シュラ、フゥーラ、パパーラ!》と。ガブリエルは彼女に魔法をかけたのです。つまり彼女はもうひとりのガブリエルになったのです。彼は自らの肉体を彼女にわけ与えたのです。そうして魔の手からうまく逃げおおせたつもりなのでした。

 ガブリエッラは、まるで雲からまっ逆さまにおっこちてきたそそっかしい天使の茶めっけで、ガブリエルの枕元にドスンと尻餅をつきました。それから《わたしまだ寝たりないのに!》と、彼女はガブリエルのお気に入りにのシーツをさっと奪って身を包んだかともうと、再びその瞳をパチリと閉じてしまいました。テーブルの上の花束の同胞たちは、口々に《まあ、なんておかわいそうなガブリエル様!》とささやき合うのでした。

 光が室内を満たすころには、彼女はゆっくりと浮遊し、その肉体は霊のように透明な鳥籠に帰還して、再び鳥らしい振る舞い、鳥らしい鳴き声を発するのでした。
 そもそもあの恐ろしい悪に満ちた彼女の影がその微動によって、ガブリエルの心を挑発したこと自体を、彼自身は、運命の逆らえ得ぬなにがしかの強力な磁力作用によるものだと理解していたのです。でも確実に彼の心臓の運動は波打ち、大量の血液を消費しましたから彼自身の善良な、そして誠実なガブリエルの天界の仲間たちはみな同情し、勇気づけのためのたくさんの歌を歌って聴かせてくれたものです。

  愛がなくなってしまえば、こんな肉体はいらない
  わたしはすべてを天にかえしたい
  この地上で生きる意味もなく
  身動きがとれない
  微笑みを司る鼓動よ
  記憶をもとにかえしてほしい
  その一陣の風にのって幸福を探しにいきたい
  そして、わたしたちの家に虹が架かるまで
  どこまでも……

 天使たちは本当に歌が上手です。その内容が哀しければ哀しいほど、ココロが昂揚します。麗しい旋律が空を晴れやかに満たし、闇には限りない、果てしのない星雲の網を架けるのです。

 彼女はいまだどこか不安そうな眼差しを送っているかのようです。今は心の平静を取戻した彼は、凛としていつものように出かけました。ガブリエッラをさらに幸せにするために、必要なものを探しに、野や森へと。
 彼女が夜通し握り締めていたのは、恋に死にたくなるときの薬でした。恐らく、それはルシフェリオがくれたのでしょう。
 《君がその薬を本当に必要としなくなったとき、君の魂は自由になるだろう》
 それは、恋にも、人生にも長けたとある賢者の言葉でした。彼女が目にする本の中にそれをそっと忍ばせて、ガブリエルはガブリエッラを抱きしめました。内から、皮膚を強く押し上げるような、興奮と、官能的な身の緩慢さ、潤いのある、また活発なそれぞれの器官を確かめるようにして、彼女に自らの愛を投げ与えると、彼は静かにベッドに横たわりました。彼女のふくよかな肉体は、観念の前に緩みだして、もはや水のように流れだして、声さえも蒸気のように虚空に吸収されていくかのようです。ガブリエルが知りつくした、この熱に包まれたガブリエッラの蠢く夜に、見事なまでの星屑をちりばめて、今夜も二人は同じ時間を、同じ鼓動を奏でるのでした。

 二人とも、この世ではひとりで生きてはいけないということを知るには本当に時間がかかりましたが、お互いの肉体を相互に駆け巡った今、彼ら双生児のようなガブリエルとガブリエッラは、この地上で生きて行くための英知をまとって、新たな鼓動を刻み始めたのです。
 ところが、ある日のこと、彼女は再びルシフェリオの影を宿して彼の前に姿を現したのです。ガブリエッラは例の恋に死にたくなる薬を大量に飲んだのでした。実は、それはルシフェリオの巧みな罠だったのです。そのつぶやきに耳を傾けると、もっと素敵な愛が、エロスが、そして永遠の愛があるというのです。それには彼女の内に芽生えた新しい生命を完全に絶ち切ってしまう成分が含まれていたのでした。そして、また彼女はカラスのような大きな黒い羽の鳥に連れ去られたのでした。鳥籠は炎に包まれ、彼女は二度と戻れなくなってしまったのです。ガブリエルは、もはや目を開けることができませんでした。ルシフェリオの微笑みが飛び込んでくるからです。そして彼はとうとう盲目の徒になってしまったのでした。

 彼女は、恋に死にたくなる薬を決して口にしてはいけないよ、と言う約束を破ってしまったのです。ところが、今度ばかりはさすがのガブリエルもガブリエッラを救い出すことができなくなりました。というのも、それは、彼女の意思が多分に働いていたからです。
 彼女はルシフェリオをも愛してしまったのです。彼女は自ら、その手に落ちたのでした。こうしてもはや、二人はこの世で会うことができなくなったのです。もう一度、天に帰って、見知らぬもののように振る舞うか、冥府の階段を降りて行くか、それしかゆるされないのです。

 ガブリエルはガブリエッラの無事を祈ってひとり砂浜に立ち尽くして、大波が来るのを待っていました。空には雷鳴が轟いて砂浜はいつしか黄金にたゆたうまぶしさに包まれました。でも彼にはもはや世界がうっすらとした闇の中にしか見いだせないのでした。彼はありとあらゆる愛着あるものを砂に埋めると、自らもその中にうずもれました。雷鳴が大きくなり、荒い波がガブリエルを飲み込んだのでした。一瞬でした。その後嘘のように穏やかな波の往来に身を委ねた砂浜には、わずかばかりの羽毛が砂に紛れて残されました。そのうち軽やかな綿埃のように空に舞い上がって風がやさしく彼方へとはこんでゆくのでした。それはこの世との永遠のお別れを意味していたのでしょうか。
 やがて月日は流れ、空が再び淡い光に包まれると、一羽の鳥が戻ってきて砂浜にたたずんでいます。風は穏やかで、時おり船も行き交う中、天使たちの歌が海の方から聞こえてくるのでした。
  星が見える? 鐘が聞こえる?
  幸福はいたるところにあるわ
  涙はすべて夜空にちりばめられたわ
  あなたの目を開いたところに花は咲いているわ、  
  あなたが耳を澄ましたところに鳥は歌っているでしょう
  さあ、純白のウエディング・ドレスをまとってあの人の元へゆくのよ
  永遠を誓ったあの人のいるところへ
  羽はそのためにあるのだから    FIN

追伸
 
 あなたの知っているガブリエルは手紙を書くことが好きなのですね。でも,これを書いた(書かせた)張本人は実はあなたのなかにいるのですよ。この夏、たくさんの言葉が闇に葬り去られました。あなたに届かずして、星になってしまったんでしょう、きっと。彼の涙は夜空に星の川を作りますし、嘆きは風になりました。さて、この手紙にはひとつの魔法がかかっていることをあなたにことわらねばなりません。つまり、この手紙を最後まで読んでしまうと、あなたは、あるいは読者は生涯ガブリエルへの想いで熱に浮かされたようになってしまうってことです。そうです、離れられなくなってしまうんです、身も心も。だから、自信のないひとはたった今、読むことを放棄して、ゴミ箱、いや、完全に焼却してください。これは本当ですので、呉々もご注意を。そのかわり、特典もあるんですが、それは最後にお知らせいたします。私は、天上の業務を勤めあげることに必至ですので、ここで無駄口は慎みたいと思います。先ずは彼の言葉《僕は愛したいだけなんだ》あるいは《僕は愛されたいだけなんだ》を君に届けましょう。君は、ガブリエッラは、どう考えているのかしらん?とはいつかの彼の寝言です。彼はいつもガブリエッラのことばかり話すと、さすがの天使諸君もうんざり気味です。けれど、その愛の形にみんなは心を打たれているのは本当です。君は本当に魔性の女かもね、今に大火傷するから、気をつけた方がいいよ、とは長老Bの独り言です。
 それにしても、何故ガブリエルがそんなにあなたのことが好きなのか、みんなには解りません。何度も二人の間を邪魔しようと、邪悪な化身が、姿を変えて立ちふさがったことでしょう。そして、みんなしたり顔でささやいたものです。《今度ばかりは奴らもおしまいだろうよ》でも、再びあなたたちの愛は豊かに混じりあって……、上級天使もうらやむ君たちの仲。でも、知っていますか、ガブリエッラ、ガブリエルの傷は思ったより深くて重傷なんですよ。さすがに我々でさえ手の施しようがありませんでした。唯一の治療法はあなたなのです、それも正真正銘の愛情を、なのです。そのことはあなたがだれよりもよくご存じですね。
あなたは本当に罪深い女です、だけど、彼、ガブリエルはそれゆえにあなたを深く愛するのです。
 そのうち、あなたの心のうちも少し、彼にも見せてあげて、といいたいところですが、何分、天使階級出身者は気まぐれで、わがままで、全く自分というものが解っていない連中ばかりですからね、さて、どうなることやら。くわばら、くわばら。
 
       天の郵便局員    ラポスト デ ロピュール
 
特典:この手紙を最後まで読破されたあなたは、次の幸福を天の総督グラン・ロピュール氏より進呈されます。
   1:ガブリエルのあなたにのみ降り注がれる微笑
   2:ガブリエルのあなたにのみ馳せられる想い
   3:ガブリエルのあなたにのみ捧げられる抱擁
  
  そして、次回も彼の言葉が風にのって花束のごとくあなたの手元に届けられることでしょう