こいきの構造

こいきの構造
こいきの構造

いきとは、媚態、意気、諦念である。九鬼周造いきの構造

こいきの構造について

公家っ子

こいきとは、歓びたい生意気何いってんねん、この三つを首尾よく兼ね備えた情緒であり風情なのである。空気吸造は「こいきのひざ構造」にそう記している。

いき」と「こいき」は近しいようでいても、似ても似つかぬもののようにさえ思えるかもしれない。いきというものが日本独自の美意識だとするならば、こいきはロピュにおける独自の美的スタイルであるといい変えることができる。人からすれば「B的」すぎるというかも知らぬ。が、美とは、必ずしも見たくれの雰囲気にとらわれてはならぬのもまた事実なのである。

「ちょいと兄さんイキだねえ」なんて言われると嬉しいものであるが、「こいきだね」と言われると、ちょっと身構えてしまうものである。なぜなら、こいきなるものを知るものがあまりにも少ないからである。希少な様態だからである。
さしずめ、解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の偶然の出会いのごとく、一見異質で交わるはずのないAとBを前に、人はそれをあたかもしたり顔で結びつけようとなどと言う冒険には出まい、そういう暗黙のルールがあるのである。邪道なのである。無粋なのである。やっかいごとは総じて人へのちょっかいなのである。枠からはみだしたものは決してではないと見なされるのである。いやはや困ったものである。

しかし、こいきは決してメゲたりはしないのである。「こいき」とは、いついかなる時にも「いき」の領域をふまえながらも、あらたにおのおの独自にいきいきした絶対的状態をのうのうとつくりだすことを理想に掲げている。とはいえ、こいき、すなわち広域であるがゆえに、決まりなどあってないようなものである。自由である。よって奇異に思われることが多いのもまた真理である。 さりとて、自分はこいきだぞ、といくらのたまって意気がってみても、生粋の「いき」から見ると実にばかげていたり、子どもじみ(子供でかつ地味であるという意)ていたりと、掌を指すようにはいかぬのである。よって、なにをかいわんや、てんやわんや(てんやもんはいらない)なのを重々承知の上で、こいき道に邁進することをよしとするのである。

とはいうものの、こいきは「個」の域からしか生まれ得ない独自の思想なのであるからして、「いき」と「こいき」の行き違いなど、さして問題ではないのである。それはおおむね「個」の問題でしかないと考える。いかなるこいきも個から個へと受け継がれるのみである。おや?から個へ、個からおや?へと行き着くのである。その様相はシーソーのようであり、振り子のようで有り、すべては永遠の孤高なるミニマル運動なのである。間違っても徒党を組んでぬくぬくたおやかにはいかぬのである。何事においても、懐疑は絶えず弧を描いて踊るのである。

さすれば「個」とはなんぞや? ということになる。個、個、個、と叫ぶ黎明の雄鶏のごとく、勇ましくある個は群れをなさないのである。英語ではインディヴィジュアル、つまりdivideできないもの、これ以上分けることのできないものと言う意味である。つまるところ、究極に細分化され、そこで行き当たりでばったり出会うことなるのは、まごうかなき自分自身である。そこは孤なる戦い、それは決して「こなれる」ことのない闘争の果てに行き着く修羅の場である。それゆえ果てしがなく、しがないのである。よって詩が師となって、こいきへの志を獅子奮迅たらしめんと始終根底に支えなければならぬのである。 ロピュはこうした流れにおいてのこいき道なるものを、いきどおらず、息を凝らして慎重になりつつ、もうひと息の域からでも行きつ戻りつし、大胆不敵に、あるいは傲岸不遜にときには分不相応にいきんだりしながらも、日々意気揚々と気を吐きながらも、そう、あらゆる邪気を破棄し、いき、すなわち真理というものを追求して生きているのである。

こいき礼賛

小雪のようにこいきが舞うと
吐息が大気に紛れ込む
紛れもなくわけもなく
濃い霧のなか深く
きりのない無限の幽玄
すなわち
永遠と同系色であるところの憧憬を
有言実行するのだ

こいきはこいきに恋をする
そしてため息をつく。
Pierrot Le Fou!(ピエロルフー)と。
けれどしかれど大丈夫
微笑みうふふ
ラララララヴィと美の消印を押す。
それは切ない刹那のセスナ飛行か?
あるいは
知られずもがなの快楽羅列主義、
そう、快楽園から甘酸っぱい呻き声

こいきはこいきを殺るだろう。
こいきはこいきに殺られるだろう。
殺っておしまいナイーブな君
やってお終い小粋特攻隊諸君
それともナイフでひとつ、ひとつきといこうか
月に憑かれて
言葉に疲れ
あいまいな愛に相まみれて

小意地をはったり
はったりの恋路だったり
けれどこいきは愛らしい
どこまでもこいきらしい

こいきはどこにでもありながら、どこにもないのだから。
こいきこいきでないことに耐えられないのだ。
もはや、もへあ、もしやもし?

こいきは決して死を恐れぬ
とはいえ、詩を恐れる
詩のないことを至極恐れるのだ
それゆえしがないのである!

気が付いたときにはもう遅い
こいきは何処にもなく
ガラガラと崩れ去る記憶のがらくたのように
こいきは柄にもなく泣く
ガラのいないダリのごとく
ギャラクシーの星クズたちのごとく
わんわんミャアミャアと
そう、オンリーワン、ロンリーワンと

それでもまた
辣腕をふるいし日が音もなく訪れるだろうか?
が、しかし、けだし、篩に掛けられ古いは一掃され
果てしなく選別され続けるだろう。

こいきなどというものは
どだい特別ではない
区別することなかれ主義の彼からすれば
とどのつまり
こいきはこいきなわけだから
トドの行き詰まり、でもなく
totoにあたってぬか喜びもせず
TOTOのつまりでもないのである。
おおウォシュレットイットピー!

いとおしきはこいきかな
こいきフォーエバー!
フォーエバー、こいきを売りあるくこいき商人達よ!