想田和弘『港町』をめぐって

港町 2018 想田和弘
港町 2018 想田和弘

失われた時を求めて、海と猫と精霊たちのいた港町にて。

物理的な移動だけが旅ではないのだと、
あるいは、直接その場に居合わせ
視線や言葉を交わすことだけが出会いではないのだ、
そんなことを教えられるのが
想田和弘による『港町』というドキュメンタリー映画である。
行ったことも聞いたこともない異郷の、
それまで、全く顔も名前も、
普段何をしているのかさえ知らない他人を前に、
こんなにもいとおしい思いにかられてしまうものなのか?
そう思わずにはいられない二時間強のスクリーンを通しての旅。
作品の押し寄せる余韻に、今静かに浸っている。

全編モノクロームの時間が、緩やかにたおやかに続いていたのが
ラストを飾る瀬戸の海を臨む景観だけ
パッと電気が灯ったようにカラーになる瞬間から
どうやら、夢から目覚めた現実に静かに立ち戻ることを
余儀無くされている。
一見のどかでありながらも、町は、他の多くの日本の地方と同じく
過疎が進み、かつて盛んだった産業や
地域の活気そのものが、失われつつある現実を露呈する。
そこには、美しくのどかなものだけがあるわけではないのだ。

『港町』は岡山県瀬戸内市にある牛窓町が舞台である。
日本百選にも選ばれた、美しい漁村である。
監督とともに映画に同行するプロデューサーでもある奥さんの故郷が、
この町だったという。
親しみと郷愁がその基盤にはあるが、
そうした感傷に溺れているだけのドキュメンタリーではない。

監督自身はそれを「観察映画」だとし、あらかじめ十戒を宣言した上で、
誠実に映画と向き合い、それを作品として見つめ、撮りあげた。
リサーチや下準備、台本もなく、当然打ち合わせなどなく
予定調和を前提としない、いわば行き当たりばったりの作品を目指す。
ナレーションやBGMなどを廃し、カメラや録音は自分でやる。
当然、制作費も自分たちで捻出する。
だいたいそんなことがうたわれ、その通りが実行される監督の映画は
アメリカンダイレクトシネマの巨匠ワイズマンの手法を彷彿させるが、
ワイズマンほどの冷徹さ、規律はなく、
至って自然で、あくまで優しいまなざしにあふれている。
監督の声も、監督自身が、映画のフレームの中に共存している。

もちろん、カメラという現実は、そうしたありのままを次々と映し出す。
しかし、全てはモノクロームという、
色を排除した瞬間とともに、あたかも一つの説話のような世界が立ち現れる。
ワイちゃんという、すでに80を超えた漁師である村田さんは
漁船に乗り込み、一人漁業を営みながら暮らしている。
耳は遠く、腰はすでにくの字に曲がっている。
もはや後継者も、自分を支える人もいない。
水揚げも年々少なくなり、維持費の方が高くつくのだと漏らす。
それでもルーチンは変わらない。
市場では、そんなワイちゃんが持ち込んだ魚を
町の鮮魚店を営む、自称後期高齢者のおかみさんが買ってゆく。
そうして、自ら鮮魚をさばき、自前の運転で販売に出る。
そんな鮮魚店に魚を買いにやってくる1組の夫婦。
どこか、都会から、引っ越してきたのだろう。
店のアラを持ち帰って、地域に根付く野良猫たちに“アラ入り猫まんま”を賄う。
通りがかった夫人は、他家の墓石が落ちてくるような環境の、
山にある先祖の墓守をしている。

しかし、こうした一人一人の人間を襲う出来事は、
目の前に広がる凪のように
いつも平穏というわけにはいかない。
当然、時化も襲う。
クミさんなる一人の饒舌なおばあさんが現れて、
まるでこの作品をガイドするかのように終始つきまとう。
この映画に住み着いた無邪気な精霊のように振舞ってみせる。
そして、このカメラを持った他者である監督に
警戒することなく、無防備で、自分の知っていることを目一杯伝えようとして
あちらへこちらへと、ひたすら善意の案内係をかってでる。
監督によれば、この案内人とは、偶然の出会いによって、
その瞬間から巻き込まれた物語が勝手に映画として動き出したのだという。
まさに魔法だ。
しかし、現実は決して平坦なものではない。
かろうじて生活をつなぎとめるものがあり、
それを別段特別なドラマとして描かれるわけでもない。

山の上にある施設を案内し、そこで、
突然の自身の告白が堰を切ったかのように始まるのだ。
観客は不意につかれるように、耳をそばだてる。
継母に育てられ、教育がないこと、
それでもなんでもできると言ってのける気丈さを持ち合わせている。
それでも、何年か前から、死を意識しはじめたのだという。
きっかけは、唯一の身内を「どろぼう」された、
「盗られた」のだと不穏なことをいう。
意味がよく掴めないが、どうやら、障害を抱えた息子を
親類の申請によって、福祉の力で、
強引に関係を引き離されてしまったらしい。
しかし、当人は未だ納得はしない。
憤りさえ感じている。
自分の知らないところで、掛けがえのないたった一人の我が子を
引き離されてしまった悲しみ。
そのまま海へ入水してしまおうとして、止められたのだという。
生きる希望を失いながらも、かろうじて生命がつなぎとめられきたのだ。
そんなことを、顕わに語り始めるこの老婆の姿が
いつの間にか、映画の主役になっているのを知る。

だが、そんな顕な告白の中身がこの映画のテーマではない。
ただ、そういう境遇の一人の気丈で、人懐っこい老婆が
この牛窓の町にいる、そしてその人物と出会うことが
この映画の奇跡を呼び、同時に映画そのものを見事に彩ってゆくのだと、
そのカメラが実直に伝えてくるのだ。

終盤には、この映画を見つめてきた観察者、
つまりは、監督夫婦に、いよいよニューヨークへと帰る時間が迫っている。
そのことで、老婆はさらに、こみ上げる寂しさを隠さない。
持ち前の人懐っこさと饒舌な語り口で、
ああだこうだと、しきりに名残惜しみながら、言葉でたむけ続ける。
それはかつて、誰もがどこかで経験したような、
後ろ髪を引かれる思いを呼び覚ます。
旅に出て、その土地の人間と仲良くなり、
あるいは、それは一瞬の出会いにおける
慎ましい友情との別離だったかもしれない。
そうした記憶、郷愁に、町を覆う夕陽のような気配で
やんわり包み込まれる瞬間が押し寄せる。

このままもっと、この老婆の話を聞いていたい。
そして、この見知らぬ町を、お節介なまでの案内に身を任せて旅をしてみたい、
そんな思いにかられはするが、時間は永遠ではない。
無論、人生もまた同じである。
映画はその縮図であり、決まったように終わりがやって来るのである。

この映画は、この無邪気な精霊のように歩き回った老婆
小見山久美子さんに捧げられている。
この映画が完成したあと、あたかも使命を果たし終わったかのように
2015年に魂の故郷へと帰っていったのだという。
この映画の完成を実際にみて、彼女の目には、どう映ったのだろうか?
きっと案内しきれなかった場所をあれやこれやと思い浮かべて
次なる機会に向け、案内を楽しみにしていたのだろうか・・・
それとも、本意ではない形で、切り離されてしまった
我が息子への愛情の代価を、この映画の中で、充足させたのであろうか?
静かに寄せて返す波の音が、そんな彼女への鎮魂歌のようにも聞こえてくるのだった。

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