ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』をめぐって

都会のアリス 1973 ヴィム・ヴェンダース
都会のアリス 1973 ヴィム・ヴェンダース

離れ難きは他人なり。僕のロードムービーはここから始まった

ロードムービーというジャンルを教えてくれたのは
紛れもなくヴィム・ヴェンダースだった。
70年代から80年代初頭にかけてのWWは、
映画を通じて人生を学んできた僕にとって神のような存在だった。
単なる“旅をする映画”、とはいうものの
ロードムービーというだけで、それ以上のものになった。
道を行く、という意味がどことなく崇高に響く。
さすらうこと、出会うこと、そして自分探し。
ロードムービーの行き着く先は
それを行うものにしかわからない。
何か特別な目的が待ち構えているわけではないのだ。
そこが面白く、興味を惹く。

そんな映画の代表作はと言われれば
やはり、ヴェンダースの初期作品
『都会のアリス』『回り道』『さすらい』の三部作を
素直にあげなきゃいけない。
できることなら、その三部作について
それぞれ延々グダグダと書いていきたいところだが
いまのところ、記憶そのものが少々おぼつかないので
いずれまた改めて書き直してみたい。
ここでは、記念すべき第一弾『都会のアリス』に絞ることにする。

この三部作ロードムービーに共通するのは
まず、俳優ではリュディガー・フォグラー。
初期ヴェンダース作品を代表する顔である。
そこへアリス役のイエラ・ロットレンダーという少女が
絡んできて、一緒に帰るべく家を探す話である。
アメリカを放浪するジャーナリストが
思うように記事が書けぬなか、
ひょんなことから、少女と知り合い、母国へ帰る旅に出る。
というと少々語弊があるのだが、
空港で知り合ったなんの関係性もない女に、
その娘を半ば強引に押し付けられた格好で
そのお供として、彼女の家探しに巻き込まれるという話である。
要するに、不器用でお人好しのジャーナリストの
行き詰まった人生に、風穴を開けるきっかけを与えてくれるのが、
このアリスの存在である。

当時、小津安二郎を心の師と考えていたヴェンダースにとっては
まさにフィリップ・ヴィンターとアリスの関係は
限定的ではあるが運命共同体、
つまりは擬似家族として、旅を通して絆を深めてゆくことになる。
前作『緋文字』で自信を失いかけていたWWは、
ここで映画作りの根本に立ち返って、
「人物から出発し必然で作るのだ」と作品に臨むことになる。
母親に捨てられてしまった感を募らせるアリスは
途中子供らしくいたたまれなくなるも
生意気盛りで、しかも時にいっぱしの女のような視線を送る。
フィリップはフィリップで、そんなアリスを決して子供扱いはしない。
そんなちょっと小生意気な掛け合いがとてもいい。

写真を頼りに、アリスの祖母の家を探す名目はあるが
いつしか旅そのものが目的になってしまうような映画で、
アリスはアリスで、フィリップから
だんだん離れがたくなるわけだし
フィリップはフィリップで、警察を巻き込むことで
この面倒から逃れたいと思いつつも、
どこかで芽生えてしまった擬似関係的感情から抜け出せない。

そんな二人にもいよいよ別れの時が忍び寄る。
祖母も母親も見つかったという連絡があって
ミュンヘンへと向かう二人を乗せた列車を
クラウトロックの雄カンの音楽に合わせて上空から捉えるロングショット。
(ああ、これが70年代のヴェンダースだ、と叫ばずにはいられない)
ハッピーでもアンハッピーでもない、
紛れもないヴェンダース、さすらうものとしての幕切れ。
すなわち、どこかへ繋がってゆくだけの
“そして人生は続く”物語として
そこには小休止があるだけだ。
ヴィンダースという人はそうやって神のような映画を作っていたのだ。

『ペーパー・ムーン』の試写会を観て、あまりにテーマが似通っているとのことで
一時は、撮影を中止しようとまで思い立ったヴェンダースであるが、
そのこともあってか、脚本を書き直しており、
全体的にやはり温度が違うと感じるところが多々ある。
ちなみに、決定的な違いはどこにあるのだろう?
などという、テーマも少しだけ考えてみたい。

要するに、個と個のテーマという意味で、『都会のアリス』の方は
より強い主張がある作品になっているのだと思う。
『ペーパー・ムーン』では、もともと詐欺師であるモーゼに加担して
二人はそのままコンビとして関係性を深めてゆくといったなかで、
本物の親子が疑似的親子として共演するからくりも手伝って、
その関係性自体が映画的でスリリングであったが、
こちら『都会のアリス』では、正真正銘の疑似関係として描きだされている分、
逆説的だが、よりリアルな他者としての関係が描き出されている気がするのだ。

十歳に未満たないアリスもアニーも、ませている点では同じだが、
アリスはフィリップをどこかで男として意識しており、
親子でも、恋人でもないが、(恋愛の対象云々ではない)男と女の関係の縮図が
クールなまでに、個と個の関係の延長上に描かれている。
もちろん、性的な意味合いもそういった深読みもないのだが
フィリップが女と出会ってベッドを共にするシーンに嫉妬するあたりは
成熟こそしていないが、子供ながらにもっている女としての目線が
なんとも微笑ましかったりする。
アニーがモーゼとダンサーとの恋路を邪魔した茶目っ気とは違うのだ。

30年型フォードに乗って、大恐慌真っ只中のアメリカの田舎をひた走る
いうなれば、アメリカンノスタルジアに満ちた『ペーパー・ムーン』とは逆に、
ヴェンダースは個としての、アメリカへの憧れとして、
チャック・ベリーを登場させ、ジュークボックで
キャンド・ヒートの「On the Road Again」を流し、
ポラロイドカメラで風景を切り取るシーンを挿入した。
そんな風にして、自分自身に向き合った映画づくりを通して、
世界を発見してゆくロードムービーというスタイルをとりながら
映画作家としての自信を深めてゆく記念すべき作品なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です