悪役のススメ

悪役

確か、何年か前にアクヤクダイスターという馬が
競走馬にいたようなそんな記憶があるのだが、
それからどうなったかは定かではない。
それにしても、そんな名前をつけられた馬は気の毒だ。
いや、とうの馬は別段気になんてしていないかもしれないが。

それよりも雨でも酷暑でも長丁場を一気に走らされ
最後鞭打たれて煽られる方がよっぽど応えるに違いない。
果たして、その大スターとやらが誰を指すのか?
そんなことは二の次というわけか。
もっとも大の競馬好きファンだった寺山修司が生きていたら
そんなくだらないことにも共鳴してくれたかもしれない。

別に競馬のことを書こうとしたわけでもないし
寺山修司について書こうと思ったわけでもない。
ドラマや映画について考えていれば
流れで、自然に悪役というタームに行き着くし、
ただ思いつくまま書いている。

言わずもがな、悪役こそは
面白い映画/ドラマに不可欠な要素であることは間違いないわけで
スターばかりで面白い話ができるはずもない。
だから、いかに脇役たる悪役に
それなりの役者が揃ってないと悲惨なことになるわけだ。

では、魅力的な悪役とはどういうものだろうか?
悪は為すけれど、どこかで人間味があって憎めない・・・
そんな悪役が果たして悪役なんだろうか?

善と悪の対立を描くのが得意だった黒澤明の作品で
『悪いやつほどよく眠る』という映画があったが
実にうまいタイトルだと思った。
森雅之は名うての俳優だったが、悪役としてもやはり一流であった。
悪いやつが夜も寝られず、ビクビクしていたら笑える。
もっとも通常はそんなものかもしれない。
一度死刑執行の呼び声がかかった死刑囚は
ものすごく音や空気に敏感になるというし、
暴れたり、場にしがみついたり、失禁したりするのもいるというから、
そちらの方がはるかに人間らしいのかもしれない。

その点、僕が大好きなかつての大映映画なんかは
バラエティに富んだ悪役の宝庫である。
ずらりと並ぶ個性的な悪役の顔を眺めながら、
いろんな映画での汚れっぷりを想像するだけで
実に楽しくなってくる。
下手な2枚目なんかより、
よっぽど肩入れしてしまうのが悪役の凄みというものだ。

もっとも、悪役といっても色々あって
崇高なワルもいれば、
せこく、いじけた悪未満もいるし
時折悪も演じるだけのチョイ悪もいる。
願わくば、悪役はいつだって悪役でいて欲しい。
しかもベタな悪役であるほど愛着はわく。
その点は吉本新喜劇と同じ理屈かもしれない。
ただし、勧善懲悪としての悪役スター。
これこそが、明快な娯楽映画の基本中の基本である。

例えばヒッチコックの『サイコ』で、
ノーマン・ベイツを演じたアンソニー・パーキンス
『羊たちの沈黙』の猟奇的殺人鬼
ハンニバル・レクターを演じたアンソニー・ホプキンス 
あるいは『狩人の夜』のシリアルキラー、ハリー・パウエルを演じた
ロバート・ミッチェルのような役者をいっているわけではないのだ。
彼らはどちらかというと悪役といっても
精神的に病んだ人間であり、サイコな人間たちである。

僕が感銘を受ける進藤英太郎などは
基本的に悪役だけで売った俳優ではないし
同じことが小沢栄太郎(のちに小沢栄に改名)にも言える。
嫌な人間、嫌らしいまでの男を演じるが
あくまでも役の一環として、悪役を演じるタイプである。
画面に出ているだけで嫌な雰囲気をもっている。
当然邪で、かつ嫌なやつである。
けれどもよく見ていると、
どこかから光が漏れるような瞬間があって、
それがおそらく俳優の素につながっているのかも、
と勝手に夢想する。

それは勝新シリーズの『座頭市』
あるいは『悪名』の朝吉、
『兵隊やくざ』の大宮など
単純明朗な正義の前に立ちはだかる
障害物としてのワルたちのことである。
あたかも餌のようにばら撒かれ
食い散らかされ、シラミのようの踏みにじられる。
それを屈辱と感じるのは寂しいことだ。

特定の悪役について細かくフィーチャーするつもりはないが
好みの俳優は色々と浮かんでくる。
成田三樹夫、小池朝雄、須賀不二男、石橋蓮司。
あるいは佐藤慶、小松方正、蟹江敬三などなど、
まさに彼らはもっぱら大スターなんかではなく
スクリーンの小悪党たちである。

彼らが悪を為してくれるがゆえに主役が輝くのだ。
メインディッシュに添えられるパセリのようなもの。
この単純な構図こそが映画の黄金時代を支えたといっていい。
しかも、多くの場合、
悪といっても、かならずといって
正義の前に撲殺される運命であることははじめからわかっている。
それでも、ただ斬られ撃たれ排斥されれば良い、
という訳にはいかない。
そこはあくまで悪のベクトルが
いかにして沸点に達するか、そこは演出家の腕だ。

そうして初めてヒーローたちはヒーローとしての役割を担える。
このかませ犬こそが悪役の哀愁だ。
その点先に挙げた進藤英太郎や小沢栄太郎などは
真に憎たらしく、嫌悪感さえ抱かせる役柄を
その名の通りに作品ごとに演じわけ、
我々愚かな観客を実に見事に不快にさせ
それを主人公、ヒーローの徳によって綺麗さっぱり
見事なまでに捌かれて泡のように消えるのだ。

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