田中登『㊙︎女郎責め地獄』をめぐって

『㊙︎女郎責め地獄』1973 田中登
『㊙︎女郎責め地獄』1973 田中登

行くも業、行かぬも業。所詮業から逃げられぬ女地獄のせめぎ合い

趣ある本物の浄瑠璃を伴って、
のっけからなんとも風情漂う石畳の上に書かれたクレジットがいい。
真っ赤な字のタイトルは『㊙︎女郎責め地獄』
カメラが真俯瞰で追いながらタイトルバックが次第に赤く染まってゆく。
そこからいよいよ岡場所に入ってゆくあたり、
じんわり痺れる傑作の予感漂うオープニングである。
これはもう、日活ロマンポルノというジャンルで
十把一絡げにして収まりきるような作品じゃないな、
そんな作品風情を感じ取った次第。
実際に、錯覚などではなかったのだ。
とくとご覧あれ。

ちなみに岡場所とは、遊郭とは少し違って
いわば公認の吉原遊郭に対して、非公認の私娼屋といった態の、
今でいう裏風俗地帯のことである。
そこで夜な夜な群がってくる男たちに
わずか百文程度で身をうろうという女郎衆たち。
落語「時蕎麦」にあるように、蕎麦が一杯16文の時代である。
蕎麦五杯分程度と引き換えに、なけなしの身体を投げ出すだけだ。
夜毎、違う男たちと愛のない房事に身をやつしても
ひたすらたくましく、そして切なく生きるしかない。
開き直るのが精一杯である。

この『㊙︎女郎責め地獄』は、監督登、脚本陽造による
いわばW田中コンビによるまさに芸術品だ。
徳川末期の江戸を舞台にした時代劇ものであるが、
凡百のポルノ時代劇と一線を画しているのは
人形浄瑠璃が巧みに扱われており、
伝統芸能と時の風俗に、女の情念とが見事に絡んだ
実に見応えのある作品に仕上がっている。
実際に、情事のシーンで本物の浄瑠璃が流れたりして、
その演出の妙に見惚れてしまう。
大手一般の映画作品に劣らない、大胆さと生々しき情緒があり、
何より、女の業の深さをしみじみと考えさせられる。

中川梨絵演じるおせんは、まさに掃き溜めに鶴。
岡場所にはもったいないほどのいい女である。
吉原から流れてきた遊女だが、客を腹上死させた挙句、
続けざまに三人もの“犠牲者”を出したために、
「死神おせん」などとありがたくもない悪名がとどろいており、
こうした岡場所に、落ちぶれた身分に甘んじている。
しかも、富蔵というやっかいな情夫を抱え込んでおり、
いわば呪われた身持ちをしているのだ。
それでも、気位と威勢だけは失わないという女で、
言動にも、たち振る舞いにも、それがにじみ出ている。

とはいうものの、なまじその器量ゆえに
言いよる客は後をたたないとくる。
こんな女を抱けるなら、死んだって構いはしないという
ばかな猛者で溢れかえるのだ。
こうした人間模様の中では
身を売る女の宿命からは、だれも逃げ仰せられはしない。
岡場所の、長屋地続きの狭くみすぼらしい淫売部屋で
春をひさぐ女たちは、身も心も搾取されてしまう、
この悲しい運命に流されながらも、
あっけらかんと男たちを引く姿は、哀しくもたくましい。
このおせんは自らのその悪名とともに、
なにやら腰が据わったある種の諦観めいた面持ちを決め込んで
虚空をみつめながらも、くるものは拒まず、
ひたすらに男を咥え込んでいくのだった。

そんなおせんをめぐっては、枕絵師・英斉の目に留まり、
あぶな絵と呼ばれる趣の絵のモデルになる。
いまでいうチラリズムとしての浮世絵で、
おせんは、やはり絵になる特別な女なのだ。
生きた鯉を手にポーズをとるおせんが
英斉にのせられ高揚して、自ら鯉と戯れ始めるエロス。
これには絵師ならずとも、うっとりとするのもわかるというものだ。

しかしその帰りには、趣味が高じた枕絵師と
ろくでなしのヒモ亭主とによって仕組まれた罠に落ちる。
非人たちからの、いわばレイプによる屈辱を受け、
挙句に荒涼たる墓場で、卒塔婆の十字架に磔にされて亭主に犯される。
ますます己の運命のみじめさを呪わざるを得ないおせんは、
愛想をつかした亭主に、いよいよ決定的な啖呵切って縁切りする。
そして、魂なき人形のごとく打ちひしがれた格好で
茫然自失のままに一人帰途につく姿が、なんとも哀しく美しい。
だが、途中、晒し場を通りかかったおせんの目に、
偶然、心中未遂で晒し者になった浄瑠璃語りの男粂蔵と
三味線引きの女お蝶の哀れな姿が飛び込んでくる。
しかも、その女の目に、女としての美しいものを見て取るのだ。

その女は盲目だが、どこかはればれとした表情をしている。
いっぽうの男は、往生際が悪く、
自分がとった行動を悔いての悪あがきにうち震えている。
ふたりの仲は、明らかに恋慕の情で結ばれているとはいいがたい。
実は、女には人形浄瑠璃師の梅吉という末を約束した男がいたのだが、
「人形の顔は覚えられるが、人間の顔となると男と女の区別もつかない」
という、人形命の男で、
女を女として扱わず、そのツケで、
女は、横恋慕してきた男が梅吉ではないと気付きながら
身を任せてしまうのである。
が、女は良心の呵責から、櫛で刺して心中を図るが
当時の決まりでは咎人になってしまう。
祝言をあげるまで綺麗な関係でいようと誓った相手だったが、
女は、女としての本能に抗えない生き物なのだ。
俗に、据え膳食わぬ男に愛などないことを、知っていたのだ。
かくして心中未遂で晒し者の刑へとあいなったのである。

そんな人形しか愛せない男は、愛しの人形を失って、
矛先をおせんに求めるが、おせんは、どうしてもこの男を信じきれない。
女郎としては、いくらでも身を任せるが、
心はそういうわけにはいかぬのだ。
「女の乳房はこんなに重かったのか」などと、
梅吉はといえば、このおせんによって女の快楽をはじめて知る。
男と女の情愛劇が、土佐座内で再現されるのだが
梅吉が黒子に、おせんが人形振りとなったこの浄瑠璃は
なんとも見事なまでに艶かしい風情に満ちている。
いよいよ、おせんからはなれなくなってゆく梅吉は
上方へと旅立つ際に、このおせんを伴侶として連れ添おうと決意するが、
おせんはなかなか首をたてにふらない。
なにしろ、手かせ足かせが多い女郎の身分。
背負うものはあまりにも大きいからだ。
梅吉はなけなしの5両をおいて、明朝晒し場でと約束をとりかわす。
しかし、のこされたおせんには、
どうしようもないヒモ亭主と親方への借金がある。
なかまの女郎たちの後押しもあり、どうにも女心はゆれる。

そんなときに、またもや邪魔に入るのが高橋明演じるヒモ亭主。
このダメっぷりもあいかわらず素晴らしいが、
再びおせんの前にあらわれて、ずうずうしくも復縁をせまる。
情にほだされ、おせんはまたもやこの亭主との腐れ縁に足を取られるが、
運命は、というか、ここからが面白い。
女房の懐に抱かれ、命果ててしまうのである。
さすがのおせんも、腐れ縁とて、亭主は亭主。
その指を切り落としてまで、供養だといって、自らをなぐさめる。
まさに女の業がいたいたしくも、切なくひとり喘ぐシーンが白眉だ。

が、話はここで終わらない。
亭主をしみじみ供養したと思ったおせんのもとに
その亭主が指を返せと再び舞い戻る。
岡場所長屋は幽霊騒ぎで、まるでコントのような大騒ぎ。
そこで死に損ないの亭主から耳したのは、親方の裏切りである。
手入れの後、吉原に売り飛ばされる運命を察知した女郎たちは
蜘蛛の子散らすように方々に散ってゆく。
姐さん女郎の絵沢萌子の導きで、亭主と二人、なんとか身を隠したおせんだが
息絶え絶えの亭主を、腹上で見とったあとに、
いよいよ、梅吉のもとへ・・・
という慌ただしい話であるが、どうにもハッピーエンドじゃつまらない。
待ち合わせの晒し場にかけつけるも、梅吉は先立って上方へ。
身代わりに残された人形の首と置き手紙に
「死神おせん」は自らの因果を改めて知って諦観するのである。
「あんたとはこれっきりにしておくよ」

なんだか、はなしの筋を追ってきただけにような気もするが、
映画はそれ以上に雄弁だ。
岡場所という特別な空間で描かれる女の哀しみ、男のエゴイズムが
じつに、執拗に、妖艶に、ときに滑稽なまでの演出で
巧みに描き出されている。
中川梨絵の肝の座った存在感はさすがであり、
衣装、表情、セリフの一つ一つがささってくる。
晒し者になりながら、女の歓びをしって死んでゆく山科ゆり、
運命を呪わず、ひたすら女の生き様を全うするしかない、健気な女郎陣。
女たちの生態を、浄瑠璃という芸能に乗じて表現する田中登の確かな演出がさえる。

残念ながら、浄瑠璃をはじめとした、
時々挟まれる人形の芝居に関してのうんちくを語れるほど、
その世界にはあかるくない人間には、面白さは半減するかもしれないが、
いや、それでも、映画としての、その表現は
まごうかたなき、ロマンポルノのなかでも燦然とかがやく一本である。

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