カトリーヌ・ドヌーブスタイル『反撥』の場合

Repulsion 1965 Roman Polanski
Repulsion 1965 Roman Polanski

ポランスキーの非尋常的臨場感は映画の神をも狂わせかねない妄想の宝庫である

いわゆる無神経でデリカシーの欠損した人間たちがいる。
たとえば、平気で粗大ゴミをその辺に
投げ捨てるような感覚なんて理解できないし
周りに気配り一つできないずさんな神経の持ち主の行動は
いつだってイライラさせられるわけだが、
かといって、何事にもいちいち事細かくって、
たとえばゴミの分別のために、
家事相応の時間をかけ丹念に洗浄水切りまでするような性質、とか、
いわゆる重箱の隅を突っつくような偏執狂的、病的さ。
それを他人にまで強要して来るような神経の持ち主には
場合によっては、狂気、殺気を感じとって
関わりたくはないというのが本音である。
物事には程度ってものがある。
そう、程度。

そう考えると、アベレージというものを扱っていては
到底面白い表現にはなかなかたどり着けないのは当然だ。
そう言う逆説的な方程式だって成り立つはずだろう。
もちろん、あくまでも映画やドラマ、小説等
ストーリーテリングにまつわる話をしているつもりだが
改めて、人が興味を掻き立てられる話を考えるとするなら
ある一定の程よいところから、いかにずれていくか、
そこをどうずらして、どう膨らませてゆくかが
作家としての腕の見せ所である。

概して、面白いと思わせるような作品と言うのは
そうした程度を超えたレベルにおいて、
どこか現実感や共感性がものを言ったりする。
あまりに現実離れし過ぎてしまうと、かえって入り込めないのだ。
そこは、作り手によるさじ加減のほどが難しいが
同時にまた、醍醐味でもあるのだ。
あくまで、フィクションの話だが、
それが現実とリンクしている場合はもっとややこしい。

ポランスキーというポーランド人の映画作家は
間違いなく変わった人だ。
生まれはユダヤ系の人間で、
幼年期にはいわば“ユダヤ人狩り”も体験しており
アウシュビッツに連行された上に
母親はそのアウシュビッツでドイツ人に虐殺されている。
また、妊娠中の妻のシャロン・テートが
カルト教団によって惨殺されたという痛ましい実体験を持つと同時に、
今度は自分が13歳の子役モデルに性的行為を強要した嫌疑をかけられ
裁判で実刑を食らったのもまた事実である。
それゆえ長い間、アメリカ本土の土は踏めない状況に追いやられている。
未だ、性的倒錯者のレッテルを根強く持たれているのだ。

要するに、なんだか深いカルマを背負って生きて来た人だということだけは
その経歴からも十分窺い知れる。
が、個々の作品を見ると、やはりこの人には
そうしたバックボーンゆえの、人には分かり得ない
なにがしかのトラウマによって、映画作家としての才能を開花させた、
といって過言でないような、そんな画作りが基調になっている。
それら、常人ではないと思わせるがゆえの、
天才的な映画を何本も撮っているのだから、
映画の神には愛され続けている稀有な人、ともいえよう。

映画において、精神の破綻を描く異常心理ものにたけ
それこそがポランスキーの真骨頂かなと思うはそうした理由だ。
中でも『反撥』を見たときのショッキングさは
時を経た今も消え失せはしない。
ポランスキーの中で一番と言われたら
間違いなくこの『反撥』だと間髪入れず答えてしまう。

同時に、カトリーヌ・ドヌーブ若干22歳の時の作品で
今やフランスを代表するベテラン大女優なのだが
ブニュエルの『昼顔』然り、この『反撥』しかり
若い時分から異常な性の対象としての存在感が不思議につきまとう。
男から見ると、“そそる女”でありながら、
どこか闇を抱えている女、そんなイメージがある。
そこがまた実にリアルなのである。

それにしてもオープニングから、
不安に怯えるドヌーブの大きく見開いた目が
恐怖を誘導してくる。
まるでヒッチコックの映画のように扇動的だ。
要するに、彼女の眼に映るものは全て不審の対象であり
とりわけ、男というものに対しての許し難き嫌悪感、
というものに支配された闇が広がっている。

ポランスキーの映画はこうして
心理的な恐怖感を高めてゆくのがとても上手だ。
壁がおろしい音とともに急に避けてみたり、
壁が粘土のように柔らかく、押し付けた手の形がついたり
あるいは天井が近くなってきたりと
そんな視覚に訴えかけるイメージを駆使し
じわじわとその怖さを募らせてゆく。
芽の伸びたジャガイモや丸焼けのうさぎなどのショットも
一度見るとトラウマになりそうなものを巧妙に使って
異常さを醸し出している。

かと思えば、
時を刻む時計の音だけで展開される、
男に強姦される妄想のシーンや
コンセントを差さないでアイロンをかけるシーン、
壁から唐突に現れる手の不気味さ異常性は
まさにポランスキーならでは演出として
記憶に焼き付いて離れない。

チコ・ハミルトンの情動的音楽もさることながら
これほどまでに音が細部にわたって恐怖を演出する映画も珍しい。
ギルバート・テイラーによるカメラワークで
強烈な一体感のあるモノクロームの世界は
実に見事なサスペンス調を演出している。

でも、『反撥』は何と言ってもカトリーヌ・ドヌーブの
神経症を病んだあの究極の演技なくしては成立しないのだ。
絶えずおどおどしながら、何か脅迫概念に支配され、
おそらくは小さい頃のトラウマを抱えながら、
妄想に引き裂かれ、次第に狂ってゆく様が実に素晴らしいのだ。 
はっきりいってしまおう。
カトリーヌ・ドヌーブは生涯の才能を
この一本に凝縮したといって過言ではない。
それぐらい素晴らしく迫るものがある。
この絶対的な領域で、その異常な精神性に寄り添ってさえいるのだ。
演じているのか、はたまた何かが憑依しているのか、
いったい、どんな心理で演じていたのだろう?
我々映画ファンには想像もつかないほどの静かな狂気である。
これが単なる美貌だけに恵まれた女優にできる芸当だとは到底思えない。
やはり、なにがしかの天才性がそこに君臨しているのだ。
この『反撥』はそれを十分証明して見せている。

しかし、映画を離れて冷静に考えてみると、
やはり、このポランスキーの感性自体が尋常ではないことがよくわかる。
映画全体を支配する異常性は
ポランスキーの感性の臨場感と呼応していると思わずにはいられない。
あたかもモダンジャズの閃光のように
それは観客の感性に直に訴えかけてくる強烈なインパクトを放っている。
一つ間違ったら、この映画でキャロルの神経を高ぶらせた狂気でもって、
ポランスキー自身が同じような目にあわされたとしても
不思議ではないかのような、そんな危うい空気に満ちている。
紛れもないこの傑作は、かくも恐ろしいリアルさを孕んでいるのだ。
ゆえに、恐ろしいのだ。
しかし、そのドヌーブといえど
実は、ポランスキーの手のひらでまんまと転がされた
単なる病的なウサギに過ぎないのかもしれないのだと思うと、
やはり、ポランスキーの恐ろしさは尋常ではない。
とにもかくにも、傑作である。

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