フランソワ・トリュフォー『トリュフォーの思春期』をめぐって

L' ARGENT DE POCHE 1976 FRANÇOIS TRUFFAUT
L' ARGENT DE POCHE 1976 FRANÇOIS TRUFFAUT

こどもはたから。こどもはちから。羽ばたけわんぱくこどもどもの詩

原題は『L’ ARGENT DE POCHE(おこづかい)』
なのに、なぜか邦題が『トリュフォーの思春期』・・・
このいかにも、な興行の経緯が気にはなるが、
それはさておいても、
この『トリュフォーの思春期』には少なくとも
この日本よりは遙かに早熟な思春期の子供たちのエピソードが
実に、宝石にようにちりばめられた名作だ。
子供の映画といえば、トリュフォー、といわしめるだけのものはある。
あざとく、こどもたちをヒット狙い、ウケ狙いで
映画に起用した作品には嫌悪すら覚えるが
反面、優れた実例もまた、無数にあるのだから
映画にとって、まさに「こども」というカードは黄金の一枚である。
そんな思いがこの一本に凝縮されているように思われる。

欧州を代表する刃物の町として知られる、
フランス中部のティエールという素朴な町で起きる日常の物語。
オープニング、タイトルバックから
学校へとなだれ込む集団による躍動的なこども達の動きを
名手ウイリアム・ピエール・グランのカメラワークがみごとに収めて始まる。
おのずとトリュフォーのこども達に対する思いを
重ねてみることができるだろう。
かつて、その分身たるジャン=ピエール・レオーが演じた
アントワーヌ・ドワネルをフィーチャーし始まった
デビュー作『大人はわかってくれない』からして、
自らの不幸な体験が下敷きにあるにせよ、
単なる苦労話、可哀想では済ませはしないという、
強い声明のような、映画的な磁力に満ちていた。
そんな魔法めいた技法でもって、われわれをいざなってきた、
このヌーヴェル・ヴァーグの旗手のフィルモグラフィーのなかでも。
突出した躍動感が、子供達をつうじて
痛快にみなぎっている作品が『トリュフォーの思春期』なのである。

こどもたちのエピソードに、多少強弱はあるが、
テーマはずばり、こどもへの愛ということになろう。
そして、この映画が特筆すべきなのは、子供が単に映画の駒でもなければ
演者、というわけでもなく、その自然な動向が
奇跡のように収められている点である。
ただ、思春期というと、微妙な年頃で、
正確には、これから思春期を経験することになる学徒たちの群像劇が
そのトリュフォーマジックにて、くり広げられている。

転校生ジュリアンにはみるからに影があり、
いつも薄汚れた服装で、見るからに精彩がない。
わんぱくで、本能むき出しに跋扈する子供たちとは
明らかに一線を引いて、問題を抱えており、
この祝祭的な子供たちの、子供達による存在の本質を投影している。
つまりは、虐待、大人たちのエゴの犠牲者なのである。
不遇の子供、この大人の前に犠牲にさらされた少年をつうじて、
トリュフォーは少年期の無念さを重ね合わせ、訴えかけるのだ。

ジュリアンの悲劇が警察沙汰となり、虐待によって母親は逮捕され
町中に知れ渡ることとなって、騒然となるのだが
教室では、ジャン=フランソワ・ステヴナン演じる
リシェ先生が、子供たちにふるう熱弁は感動的だ。
けして、プロパガンダでもないし思想でもない。
もちろん、エゴでも、おしつけでもない、愛なのだ。
つまり、これはトリュフォー版の「熱中時代」でもあるのだ。
このような先生がいる限り、子供たちの未来は
決して暗くはないと胸をなでおろすだろう。
希望に満ちた、そして輝かしい門出になるはずだと、
大人たちは、未来を投影することができるはずだ。

それにしても、今から半世紀前とはいえ、
日本とフランスの教育事情はまるで違って見える。
少なくとも、思春期の概念には
ややズレがあり、明らかに日本に比べれば早熟である。
教室で、演劇学校さながらに、
子供にモリエールの『守銭奴』を真剣にレクチャーし、
得意になって朗読する子供たちがいたり、
映画館で映画そっちのけで大人の男女の戯れの真似事をするブリュノ、
(ちなみに、この少年の相手パトリシアはトリュフォー実の娘エヴァである)
あるいは、父親の封建的なお仕置きをアパートの住人に
拡声器を使って訴えかけまんまと食料をせしめる少女シルヴィー、
友達の母親に恋心を抱いて花束を渡したりする少年パトリック、
辻褄を合わせようとして、子供の知恵で
でたらめに友達の散髪を敢行してしまうドリュカ兄弟。
十代にして、すでに大人の予備軍たる己の意思、欲望を
はっきりと理解しているかのように振る舞う子供たちは
実にたくましく、思わず、にんまりさせられる。

そんな中、天真爛漫なグレゴリー坊やが11階から落ちてもケロリとして
大人たちをどきっとさせるシーンはその象徴だ。
これは実話で、この坊やは当時の政府から
「最強の人類」として表彰されているらしい。

もっとも、ジュリアンのように虐待され、
自由を奪われ、子供としての権利に預かれない子供もいるし、
女の子に心開けず、一歩一歩確実に階段を登るシャイな少年もいる。
それがこの映画のもう一人の主人公パトリックである。
要するに、虐待されるジュリアンとシャイなパトリックは
どちらもトリュフォーの分身なのだ。
そうした子供たちの群像を見事に納めた傑作『トリュフォーの思春期』は
時代が変わっても、国が違っていても
子供の基本的な本質が変わらないことを示唆してくれる。
その意味では、この瑞々しさと苦さの同居した
子供たちの表情と存在こそが、かけがえのない至宝なのだ、
ということをこの映画は端的に伝えている。

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