溝口健二『近松物語』をめぐって

『近松物語』1954 溝口健二
『近松物語』1954 溝口健二

暦限り、命がけの不遇の不義密通者たちへの鎮魂歌

毎年、職業柄、年末にかけカレンダーの制作に追われる。
オリンピックの関係で、祝日が乱れ、
このところイレギュラーだった年が続いたが、
カレンダー業界に関わるものたちにとっては
多少なりとも混乱させられたのは事実なわけで、
来年からはようやく正常のサイクルにもどり
これもまた通常の社会にもどるための第一歩なのだと
あらためて思いしらされる。
そういうことに敏感な人が、どれぐらいいるんだろうか。

国民は決定された事実を、
厳粛に受け止めるしかなく
たかだかカレンダーの話だとはいえ、
暦に文句は言えず、覚悟するしかないのである。

しかし、覚悟をきめた人間ほど強いものはない、
という結論をのちほどつながってゆくのだが、
ひとまず、それはさておき、
昔の人はどうしていたのかしらねえ?
そうつぶやくのは、割りを食う職人さんの声。
そんなことから想い馳せると
近松門左衛門『大経師昔暦』が浮びあがる。

その前に「大経師」というのはなんぞや、というと
かつて、巻物の表装に携わっていた「経師」
その長が「大経師」ということになり、
それが、江戸期になると
幕府から暦の版行・販売権を預かるようになり
そこで暦を一手に引き受ける独占業者として君臨。
町人ながらも名字帯刀まで許されていたというから、
暦がいかに値千金であったかという話を
物語っているように思われる。
もとは朝廷御用達の職人なわけだから、
それなりの格調高き地位にあったわけで、
そんな前ふりこそが、
話をいっそうドラマチックに仕立てるともいえる。

さて、そんな背景をもつ近松の『大経師昔暦』だが
ここでは溝口健二の傑作映画、『近松物語』を取り上げてみよう。
何しろ、今から70年近く前に撮られていたとは思えない、
この恐ろしいまでの国宝級である傑作を、
そう雑には扱えず、またスルーするわけにはいかぬのだ。
以下は、その話である。

京の都でかような恩恵に浴し
その巨利を得ていたのがこの大経師以春である。
とにかく欲の皮が突っ張った筋金入りの守銭奴。
そのくせ女癖が悪く、権力にもすこぶる弱い
今も昔も変わらぬ“お大尽さま”の縮図、
といえば聞こえが悪いか。

そんなところに、“どえらいこと”が起きるのである。
いわゆる不義密通というやつで、
いまでいうところの不倫であるが、
時代が違えばこうまで違うものだろうか?
犬畜生同然の、なんともあわれな結末、
そう思わざるをえない理不尽な扱いを受けるのである。
単なる男女間の色恋のもつれだけなら、
まあ、気持ちはわからぬでもないが、
幕府の直々息のかかかった
「大経師」のお家騒動ということで、
いまなおかたりつがれる「おさん茂兵衛」物語には
不義密通者には洛中引き回しの上、処刑にて磔、
しかも家まで取り壊しという結末がまっている。

それほどのことまでをしでかしての危険な恋愛沙汰ゆえに
この話は、当時の大衆の胸を打ったに相違なく、
当然、都の民衆たちの耳に入らぬ訳も無く
それを西鶴の方は、この姦通譚を
男女の情愛のもつれに重きを置いたが、
近松は、むしろ悲哀としてとらえ
浄瑠璃にして、世評を博したのを下敷きにしたものを、
依田義賢がその両者の間をとって脚本を書いたのが
この映画版『近松物語』である。

何度も書くが、溝口作品のなかでも、
一二を争う最高の出来映えであり、かつ、
日本映画屈指の名作、そんな溝口組の屋台骨は、
当時の蒼々たる面子で固められていた。
撮影は宮川一夫、美術は水谷浩、音楽に早坂文雄。
その他をひとくくりにするのは申し訳ないぐらいだが
名前の知られていない職人たちがわんさと控えている。
何しろこの映画にかかわるスタッフみな凄腕ばかり。
台本にはじまり、衣装、小道具、習慣にいたるまで
綿密な時代考証をへて執拗なテストをくりかえすという、
震えるような現場では、隅から隅まで超一流揃いだからこそ、
なしえた匠の業が披露される。
兎に角見応えがあるのもうなづけよう。

1954年というと、同年には黒澤組の『七人の侍』
木下恵介『二十四の瞳』や成瀬巳喜男『晩菊』、
そこに『ゴジラ』を加えてもいい。
そうした数々の名作が公開されていることからも、
いうなれば日本映画史における黄金期といっていいだろう。

そこへ天下の長谷川一夫様のお出ましである。
当時の大映永田社長の鶴の一声で、
この人気スターが抜擢されたらしいのだが、
どうころんでも溝口が好む俳優ではない。
むしろ当初は足かせだったのではないかと予想はつく。
だから、よくOKを出したものだが、
結果的にはうまく収まってはいる。
演技には厳格な溝口に、スター長谷川一夫が合うはずもない。

いわゆる目で芝居をするこのサービス主導の形芝居に、
演技には俳優たちの“反射”、
つまりは役になりきっての本物の芝居を徹頭徹尾要求する
鬼のミゾさんとじゃ、まさに水と油であるのはいうまでもない。

監督はそんな俳優に「君ッ… 茂平ですよ。
形芝居は駄目です!反射して下さい。」
現場で鬼のようにそう叫んでいたというし、
なかなかOKのでないシーンでは
「溝口さんはいっつもこんなふうなんか…。」
と長谷川はスタッフに愚痴をこぼしていたという。
“反射”とは、溝口がたびたび口にしたという
役になりきった俳優が理性を越えて立ち現れる、
究極の演技のことだ。

おさん役には当初木暮三千代を想定していたというが
そこに当時若手というべき香川京子を大胆に抜擢し、
こちらはその初々しさが功を奏したというべきか。
男が花形ゆえに、美男美女では現実味が削がれる。
駆け出しではないが、
この評価定まらぬ香川京子の抜擢には勇気がいったはずだ。
が、画に新鮮みを与えたのは間違いなく
崇高なるものにしているとさえいえる演技を見せた。
とりわけ、後半ますます離れられなくなってゆく業の描き方がなんとも凄い。

格でいえば、落差が大きいわけだが、
そこをうまく、これほどまでの傑作に仕上げた
溝口の手腕に舌を巻く。
おそるべき執念というべきか。
何しろ、長回し、ワンカットワンシーン、
ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠達だれもをも
うむをいわせず熱狂させてきた監督である。

俳優陣も、脇に至るまでなかなのくせ者ぞろい、
とにかく芸達者なワルたちが、男女の不倫ものを、
不義密通御家取り壊し大転落悲劇への仕掛人として
描き出しているのが素晴らしい。

まずは、溝口組常連の進藤英太郎はなにぶん不可欠で、
よほどの信用があったのだろう。
悪役と言っても、この人ほど、
味のあるいやらしい悪役を知らない。
そこに、番頭の助右衛門こと
小沢栄(のち栄太郎)である。
この人もまた、ねちっこく、
小狡く立ち回る役をやらせれば、
右に出るものがいないほどである。

おさんの実家である岐阜屋の母親は浪花千栄子。
先のNHK朝ドラで話題にのぼった、あのおちょやんである。
兄道喜には田中春男。
元はと言えば、おさんの兄この道喜が波風をたてたのである。
借金を工面せんと妹おさんを頼ってきたのが、
けちのはじまりで、ただでさえ、お家の事情で、無理矢理嫁がされ
本意からの嫁入りでもないおさんとしても、
板挟みを食うのである。
そして、困ったはてに、
使用人茂兵衛に相談したことがことの発端であり、
夫以春をこらしめようと手を打った芝居から、
なにがどうころんだか、
まさにミイラ取りがミイラになった話でもある。

それにしても、事が大きくなり始めても、
自分たちの保身しか考えない人間たちと、
ますます純粋なる恋に燃え盛り
強固になってゆく恋仲ふたりとの対比が面白い。
最後まで見どころ満載で、
いちいち感嘆してもきりはないのだが、
この映画のハイライトは、何と言っても
琵琶湖で心中を試みるシーンからの、
恋愛加速の逃避行ということになるのだが、
何しろ、それまでは、まだ自分たちの本心には一切触れ合わず、
事のけじめとしての身投げのつもりだったが
茂兵衛の告白で、おさんの心に火がついてしまう。

「おまえの今の一言で、死ねんようになった、
死ぬのはいやや、生きていたい」
そう言い放ち、感情のまま抱き合う二人。
ここからのスリリングな展開は
まさにクライマックスへの序章だ。

この映画の特徴というか、
骨格には明確なリズム、そして間にある。
そのリズムを司っているのが早坂文雄によるスコア。
歌舞伎で使用される下座音楽を使い、
日本の楽器をベースに独自に洋楽器も加えられ、
オリジナリティ溢れる見事なスコアになっている。
これだけ切取っても、革新的な作品なのだ。
ストーリーともうまくからみあっており、
役者たちの醸すこのリズム、間、調子が
映画を実に拡張高いものへ押し上げている。

たとえば、主人の許可なしに印判を押し、
金の工面を図ったところを咎めらるシーンの
鼓を使った間合いなどは、まさに職人芸ならではの域だ。

そして、この映画は、
冒頭、見知らぬ不義密通の晒もののシーンで幕をあける。
「これから磔にあって、さらしものにされるんや、
本人だけやない、お家の恥や」と主人が言えば
「あんな浅ましい目に会うくらいなら、
いっそご主人に打たれてしもうた方がええのに」
と女房が言う。

このやり取りの後に、大太鼓のドーンドーンという
地の底から響くような音が聞こえてくるシーンが、
いうなれば結末の動線となっているのである。
そしてそのラストシーンで
市中引き回しの刑に二人が取って代わり
かつて家に奉公していた人間の声がもれ
「お家様のあんな晴れやかな顔見たことがない」
「茂兵衛さんも晴れ晴れしたお顔で、
ほんまこれから死にはるんやろうか」
末端の奉公人たちからそんな声がもれてくるなか、
再びドーンドーンという大太鼓の音に
無常観漂う横笛がかぶさり
最後拍子木の音でフェイドアウトする。

観ているほうも、どっと疲労が襲うシーンである。
けれども、なんとみごとな悲哀物語なのであろうか。
感嘆せずにはいられない二時間弱。
天和3(1683) 年9月22日姦通の罪で
非業の最期を余儀なくされたおさん茂兵衛も
約三世紀の時を経て
ようやく銀幕の楽園で浮かばれたに違いあるまい。

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