黒澤明『羅生門』をめぐって

羅生門 1950 黒澤明
羅生門 1950 黒澤明

善悪の彼岸にて、人間の本質に懐疑が踊る、これが証文

昔から、宗教や道徳を通して叫ばれるところの
天国と地獄の価値観は、
いいことをすれば天国へ
悪いことをすれば地獄へ落ちる
いわば単純明快な二元論である。
いつの時代も繰り返し描かれてきたテーマだ。

が、ことはそう単純なものでもない。
子供の頃からずっと頭の片隅に引っかかっている仏教的寓話に
たとえば芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』があるが
悪を尽くした報いで地獄に彷徨うカンダダが
生前に一ついいことをしたということで
お釈迦様の加護を受けて、
蜘蛛の糸一本で地獄から脱出できる機会に恵まれるが
所詮、悪人というか、自分のことしか考えない男の結末は
お釈迦様を落胆させるものだった・・・

人間が抱え込んだ闇の深淵を解明しようとしても不毛だ。
そんな芥川の別の短編『藪の中』をモティーフにした世界を、
世界のクロサワが映画化した名作『羅生門』は
やはり見応えがある力を持った映画である。
まずはセットの素晴らしさだけでゲイジュツ品。
そして、宮川一夫による光の美しさを収めうるカメラワークの巧みさだけで一級品。
登場人物たちの意見が食い違うという複雑なプロットが映画の導線で、
最後は人間の本質と尊厳が描かれた脚本の見事さ。
それてもって俳優たちの迫真の演技。
薮のなかで繰り広げられる三船演ずる多襄丸の
あのギラギラした野生味、対峙する京マチ子の妖艶さ。
そして立ち会ういぶし銀森雅之の渋味。
あるいは、志村喬の見せる人間味と存在感などなど。
これが名作と呼ばずにいられようか。

が、自分の中ではある意味、その内容に懐疑が踊る。
当事者三者三様の言い分をして、
どれが本当か、藪の中で、
それを聞く周りも「わからねぇ」と首をひねる話である。
バケツをひっくり返したような豪雨のさなか、
羅生門にて交わされるそれぞれの困惑ぶりに、
人間の尊厳、人間というものの複雑さを重ね合わせ
それを問いとして観衆に訴えた形の映画だが
何か判然とはしない。

カンダダほどあからさまではないにせよ
人間とは元来自分勝手なもの。
その結末に描き出される見事なまでのヒューマニズム。
小説では老婆が若い女の死体から髪を抜いで
鬘を作って生活の足しにすると言う設定だったが、
映画では捨て子に託された着物まで剥ぐ
と言う設定に変わっている。
そのロクデナシの下人から
みずからの盗っ人っぷりを指摘され
ぐうの音もでないかに見えた木こりだが、
子供を育てるに六人も七人も変わらないと、
ラストシーンでは捨て子を愛おしげにあやしながらのぞかせる
人間としての美徳、その姿をみて
「ありがたいことだ。おぬしのおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」
と再び人間の尊厳を取り戻したかのようなセリフの僧侶。
わかりやすいことこの上なきオチこそは
クロサワ映画の神髄、世界に名を轟かせた名将のなせる技というわけか。

ただし、そこにまた一抹の疑問が踊り始める。
人間とは、かくも単純なものではないんじゃないか?
そこから生まれた映画に
ふと意地悪な思いがもたげ始める。
だれが善人、だれが悪人ではない。
己の心に悪が棲み、同時に仏が宿る。
だからこそ、はっきりとした正義と邪悪の二元対立に
観客はエンターテイメントとして
面白おかしく沸くのかもしれない。

一体、正しい人間なんているのか。みんな自分でそう思っているだけじゃねぇのか。人間ってやつは、自分に都合のいい悪いことを忘れてやがる。都合のいい嘘を本当だと思ってやがる。そのほうが楽だからな。

今も昔も、ひとの心のうちなど誰にもわからない、
という見方を、こっそりと支持している立場としては、
ホッと胸を撫で下ろす自分がいる。
黒澤の『羅生門』はまずはじめに
人間の善が前提となっているきらいがあるのだと思う。
つまり、性善説というやつである。
だからこそ、木こりは捨て子を我が子に加えて育てようとし、
僧侶は人を信じることを手離さずに済んだのである。

映画の見所からいえば、
人間の尊厳が保たれることでひとまずメデタシだろうが
天国的でも地獄的でもない
観客を引き込むその熱量が大きければ大きいほど
映画としてのスリルは増す、というのが自分の思いだ。

芥川の『藪の中』では
確かに最初下人は目の前の老婆の悪を許せない。
しかし、それは別段道徳的なものではなかったのだ。
今や老婆の行為を許すも許さないも、全てが下人の思いのうちにある。
飢え死にするか、盗人になるか
その勇気を持てなかっただけの下人が
目の前の現実から、自分の意思をはっきりと認識するに至る。

「では、おれが引剥をしようと恨むまいな。
おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」

ゆえに自分のことを棚にあげても、
目の前の正義を優先するこのエゴイズムが俄然、力を持つ。
それこそが物語の骨子として
つまるところダイナミズムになって欲しかったのである。

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