神代辰巳『恋人たちは濡れた』をめぐって

恋人たちは濡れた 1972 神代辰巳
恋人たちは濡れた 1972 神代辰巳

海と女体と映画館、そして唄。それだけあれば映画ができる

いいか悪いか、そんなことは知ったこっちゃないけれど
女の裸がこれほどまで安直に溢れている時代はないのでは、と思う。
女の裸はこの世でもっとも美しいものだとは思うが、
その安易な消費構造の前には、複雑な気持ちになる。
それでいて、テレビなど、表立っては勝手に機制の網を広げるだけ広げ
ムズムズしたものしかみせてはくれないのだから、困ったものである。

やはり、裸は映画に限るのだ。
自由に、そして限りなく自由に広がる女の宇宙。
男が求めるのはそれだ。
初めてポルノ映画をみたのは高校生のときだった。
しかも町の寂れた映画館でひとりで観る勇気もなく
悪友を伴い、キョロキョロと定まらぬ視線の先にある
映画館への闇へ侵入を試み
大人一枚の入場件をもぎりのおばちゃんに手渡したときの
あのドキドキ感をおぼろげにおぼえている。

もちろん、観た映画がなんだったのか、
どういうストーリーだったか
そんなことはまったくといっていいほど覚えてなどいない。
スクリーンに女の裸体や男女の睦みあいがあったとは思うものの、
それすら漠然とイメージがあるだけだ。
ひたすら館内にひろがる寂寞感と
男臭ただよう独特のうらびれた昭和の映画館であったことだけが今も記憶にあるが
同時に、その暗闇はまるで女の子宮のようになま温かった記憶がある。

そのとき、それがのちに語り継がれるロマンポルノという
ひとつのジャンルとして認識していたはずもなく、
意識はエロ映画でしかなかった。
そんな分別、余裕はどこにもなかったと思う。
十代の青い好奇心に過ぎない。
のちにその作品をみてひかれてゆくロマンポルノは
手っ取り早く女の裸体や絡みを拝む手段に過ぎず
欲望の前にひたすら突っ走っただけである。

その後多くの日活ロマンポルノ作品を見てきた。
小沼勝や田中登、西村昭五郎といった古典作品はもちろん
玉石混交の世界を探索した。
だが神代辰巳という人だけは特別な思いで見ていた。
セックスというものに、あれほどまでに固執した監督なのに、
不思議に、猥褻だとは一度も思ったことなどない。
ただそこに男と女の哀愁が漂っていただけだ。
見終わると、いつも哀しい気分が波のように押し寄せてくるのだ。

今、出し抜けに『恋人たちは濡れた』をみたくなって見返してみる。
神代辰巳当人にとっては、特別の思入れがある作品は、
同時に、その世界に魅せられたものにとっても特別なのだ。
無論ポルノとしてではなく、映画としてだ。
ポルノだと思って見る人、みようとする人には
全くもって退屈極まりないに映画に違いない。
何も起きやしない。
いや、虚無のようなものが、無防備に突きつけられる。
それもそのはずで、70年代の空気を溶かし込んだ
わけのわからない焦燥感に突き動かされる主人公たちの吐息が
官能よりも抒情的に網膜を突き抜ける。
そうしたフィルムのざらつきが今でも色褪せず
この網膜越しに感じ取れるからだ。

舞台は抒情を誘う海沿いの町。
かつて「海、少女、市」
それだけあれば映画は撮れると豪語したのは勝新だったが、
ここでは海辺の町の寂れた映画館で
自転車に乗ってフィルム運びをする男がいて、
その男が背負う過去が女の肉体を通じて、
若者たちの虚無感、行き場のなさに哀愁を滲ませながら
刻印されている。

そこにくたびれた女主人、絵沢萠子がいて、
ここにも一人、満たすことのない思いを抱えた人間が、
人間を求めて人知れず声を上げている。
二人は動物のように絡み合う。
しかし、このいっときの渇きを癒す若い男が姿を消すと、
真っ逆さまに絶望へと向かう。
この哀しさはなんなんだろうか?

男はかつてこの街から飛び出した若者だというが、
本人はそれを否定する。
過去を忘れてしまいたいほどに、傷を抱えている。
しかし巡り巡って己の親しんだ町へと帰還するしかないのだ。
同級生たちはそんな男に関心を募らせ、
そこに生贄のようにして女が差し出される。
その女を巡り、抵抗と支配、
すなわち男と女の本能を競う絡みが続く。
勢い余った本能が暴力的に昇華され、
草むらで、浜辺で狂ったように愛し合う。
それは決して幸福な愛情ではない。
ただただ裸と裸がぶつかり合うだけだ。
虚無だ。
出口なしの不条理が荒れ狂う。

この縮図に果たして猥褻なものはあるのだろうか?
スクリーンを汚すのはあの、ぼかしという名の安っぽい規制だけである。
そのほうがはるかに猥雑でいやらしい。
いみじくも勝新作品でもその辣腕をふるった
数々の傑作を見守ってきたカメラマン姫田真佐久を迎えての映像は
そんな権力に抗うかのような
激しい男と女の息吹を見事に捉えている。
日活ロマンポルノの黎明期を支えた女優たちの女体、
絵沢萠子の、あの炎のような恩讐が迫り
中川梨絵の今にも消え入りそうな淡い光が陽炎のように仄めく。
対照的な輝きを灯しながら、
『恋人たちは濡れた』のスクリーンに永遠の輝きを放っている。

それはまさにロマンと呼ぶにふさわしい。
あまりにも、孤高な風がスクリーンに吹いていたのだ。

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