田中登『真夜中の妖精』をめぐって

真夜中の妖精 1973 田中登
真夜中の妖精 1973 田中登

復讐には天使の優しさを

手持ちカメラが新宿の飲み屋街を徘徊する冒頭
「う~たぁをわ~すれたぁ~ カ~ナリヤはぁ~」
という呪文のような歌のリフがかさなってきて、
のっけから頭から離れなくなる。

田中登の『真夜中の妖精』を見終わった後に襲われる
このなんともいえぬ余韻をどう説明していくべきか。
ロマンポルノという形態のなかに哀しく咲く 、
そして恐ろしくも、無垢なる狂気をはらんだ
大人のファンタジー、といっていいのだろうか。
不思議な感動を覚えているのだ。

70年代初頭、新宿ゴールデン街が、まだヒッピーたち、
俗にいうフーテン族と呼ばれる連中のたまり場だった頃、
いまは跡形もない「旧大久保車庫」へ向かう廃線跡あたりで
たむろしているのは、おそらく二丁目あたりの住人たる
性を超越した妖しげな夜の人たちだ。
この場面は同じく、『牝猫達の夜』のなかでも
つかわれていたぐらいだから
随分お気に入りのスポットだったのだろう。
確かに、映画的叙情をそそる場のこの時代特有の空気感を
むざむざほっておく手はない。

すこし頭の弱いツインテールのカナリア嬢は
どこか少女漫画から飛び出してきたような、
あるいは、少女が胸に抱きしめる人形のような
愛くるしく笑顔をみせる女で、山科ゆりが演じている。
その配線跡から、おかまのお兄さんに氷の塊の上に乗せられたカナリアは
赤子を背負い、周囲の奇異な視線を浴びながら、
路面を横切り引っ張られて向かう先は
カナリアの巣たるバー「チューリップ」。
表向きはバーだが、その裏では、
一応はその面倒を見ている格好の、姉さん株の蓮っ葉女明美が
そんなカナリアに二階で客をとらせて甘い汁を吸い、
しかもその絡み合いをそのまた情婦がこっそり覗き見ているという、
なんとも猥雑な光景に満ち満ちている。

このカナリアは子持ちだ。
その部屋では、ゆりかごの上で、さらなる無垢がゆれており、
終始耳にのこるガラガラの響きが、この女の無垢性を哀しいまでに滲ませる。
おそらく、客の子を出産したのだと思われるが、
いわば非嫡出子を、まるで人形を愛でるように育てているのだ。
そして、こどもの父親というか、
彼女の言葉をついて出る「おとうちゃん」をいつも探している。
縁もゆかりもない「お父ちゃん」たちが、入れ替わり立ち替わり
まさに欲望任せに日替わりでやってきては、カナリアをおもちゃにしてゆく。
そんなカナリアのお気に入り「おとうちゃん」になるのはあの風間杜夫である。
カナリアは、まるで針の進まないレコードのように
「う~たぁをわ~すれたぁ~ カ~ナリヤはぁ~」をただ繰り返すだけだが、
風間杜夫がこのリフレインの続きを歌うと
「歌を全部知ってるのはお父ちゃんしかいないもん」と
カナリアの心が一気にうばれるのである。
映画では、その名の由来こそ明かされないが、
おそらく、この歌をめぐる哀しいストーリーが
そこに横たわっているのは想像にかたくない。

一方のこの風間杜夫という男は、単に人の幸福が妬ましい、
ただのハピネスキラーである。
そんなエゴで屈折したどうしようもない男と
頭は弱いが純粋無垢な子猫ちゃんが出会うとどうなるか。
この化学反応をロマンポルノで描こうというのだがら
相当な硬派なファンタジストじゃなかろうか、と危惧するところだが、
そこからが鬼才ムッシュ田中登たるマジックの見せ所。
これがなんとも魅力的な寓話を作り上げてゆく。
最初は、鬱陶しく思っていたカナリアから、
「ベロベロしよう」とおねだりされ、そのいたいけな懐っこさに
流石のハピネスキラーも彼女に対しては次第に心を開いてゆく。
そうして、ついには頭の弱い子猫ちゃんが、
この単純エゴ男に終始付きまとって、
幸せなカップルを襲撃するという、この不謹慎なまでの
子供のテロリズムがなんとも刺激的なのだ。

それにしても、生贄にされたものにとっては災難でしかない。
かような無差別のテロリズムの洗礼を浴びる因果など、
どこにもないにも関わらず、
このエロスの強度においては、どうしても
純白の処女性こそが求められるのだ。
両親の前で、ついで、フィアンセの前で
これでもかこれでもかと凌辱的な仕打ちを受けながら
この残酷なハピネスキラーたちに、なんども幸福をふみにじられてゆく。
なんたるサディズムだろうか。
しかし、そこに文字通りのサディズムよりもやっかいな
無垢なるエロスに荷担されてはどうしようもない、
と言わんばかりの演出に田中登のエロティシズムがある。

それにしても、サングラスをろうそくの火であぶって
安物の度付きを偏向サングラスもどきにかえてしまったり
さらって誘拐して連れ行った海岸で、生き埋めにした花嫁を尻目に
フリスビーをしたり、じゃれあってみたり、
田中登が見せるディテールの偏執度は実にシュールだ。
究極は、「おとうちゃん」がバーの身請けカップルによって撲殺されたあと、
その空虚感をうめるがごとく、生け贄たる花嫁の結婚式にあらわれて、
「うたを忘れたカナリア」の歌とともに、花嫁にトドメをさす。
陵辱に絶えかねなくなった花嫁は、まるで小鳥が窓に衝突死するかのように
自らガラス戸に突進して果ててしまう。
笑みを浮かべるこの無垢なるテロリストは
悪魔のようであり、天使のようでもある。
なんという残酷さだろうか。
おそるべし、田中登ワールドに、言葉を失うのだ。

大正期を代表する童謡詩人である西條八十によるこの「かなりあ」は
雑誌『赤い鳥』に掲載され、日本ではじめて
曲つきの童謡として発表されたものである。
フランス留学の際には、ポール・ヴァレリーなどとの交流を深め
よって、フランス象徴主義の影響を受けたその詩才は子供達の心を捉える。
表向きは歌わなくなったカナリアに、
こども達が一見残酷な表情をのぞかせる歌だが
八十の意図はちがった。
日本童謡全集 にのせられた八十の言葉をまま引用してみよう。

人間でも、鳥でも、獣でも誰にでも仕事のできないときがあります。
かういふとき、わたしたちはそれを大目に見てやらなければいけません。
ほかの人たちには、なまけてゐるやうに見えてもその當人は、
なにかほかの人にわからないことで苦しんでゐるのかも知れません。
たとへば、このかなりやも、このあいだまで歌つてゐた歌よりも、
もつといい歌を美しい聲でこれからうたいださうとして、
いま苦しんでゐるのかも知れません。ね、だから、みんなで、
いぢめずに氣を永くして待つてやりませう。

西條八十

つまり、歌えなくなった小鳥へのあわれみを詠み、
人々の慈悲を請う歌なのである。
しかし、山科ゆりが演じるカナリアは、
そんな慈悲の施しを受けることなく、求める方法も知らず生きている。
汚れた手を払うことさえ知らず、できず、
むしろ、欲望の前に搾取されるクラウンのようにただ笑うしかなく、
哀しい運命の糸にすがって生きるしかないのである。
よって、これは、そうした全てを取り囲む邪悪なるものへの復讐譚なのであり、
いみじくも、天使の微笑みをもってして
その復讐が成就してしまうという、実に哀しく残酷な物語なのである。

かなりや

西條八十作詞 成田為三作曲

唄を忘れた 金糸雀は
後の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸の小薮に 埋けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭で ぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮べれば
忘れた唄を おもいだす

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