アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』をめぐって

PSYCHO 1960 Alfred Hitchcock

これまで見たサイコーなサスペンスホラーはサイコで異論はない

近年、世間ではサイコパスなる精神疾患保有者が
色々と注目を浴びている。
実際にサイコパスという人格に遭遇することが
そうそうあることだとは思ってはいないわけだが、
恐ろしく厄介な性質をもった人格であることはどうやら否めない。
どこからともなく、猟奇的殺人などのニュースが入ってくると
人は瞬時にゾッとさせられるわけだが、
多くの場合、ドラマや映画、小説においての素材としては
このうえなく興味深い他人事として受け止めるだろう。
ところがその実態を、あたかも身近に、
直接的に垣間見せられる事になった場合には、
おそらく冷静でなどいられないに違いない。
もっとも、多かれ少なかれ、
サイコ的資質を持った人間がそこらじゅうにいて
いつなんどき、被害を与えうるかなんてことは、誰にもわかりっこない。
こればかりは、事故でしかないのだ・・・

なにしろ、サイコパスに該当するその人間自体に、
自覚がないというのだから、考えても無駄なのだ。
いやはやなんともいえぬ恐怖感がそこにはある。
気配を察知すればまずもって逃げる一手である。
数奇なる精神の病いに対処法なし、といったところか。

脳科学の専門家にいわせれば、これが、不思議なことに、
表面上は実に魅力にあふれた人物像に映ったりするのだとか。
なんとも厄介な話ではないか。
こうした日常、どこかで何食わぬ顔の主とすれ違うということは、
なにがしかの役割を担い、隣人然として生活していると言うことを意味する。
どだい、そんなモンスターたちにどこかで遭遇したからといって
瞬間的に吸血鬼やゾンビになって襲われるわけではないし
こちらとすれば、なすすべがないお手上げ状態なのだから、
気にしたってムダである。
まして、やたらに過敏になって
にわか精神科医になってまで、あらぬ心配や嫌疑をかけるのも別の意味で問題である。
それこそ面倒な事件に巻き込まれかねない。
触らぬ神に祟りなし、とはよくいったものだ。
相手は人類最強無敵のウィルス保持者なのであるからして、
すみやかに距離を置くことが無難にやり過ごす知恵だ。

と、そんなことを日常ベースで真顔で考えているというと、
なにやらこちらまでサイコパス扱いされそうになってくるから、
むろん、通常は胸にしまってあることだ。
対象なき心配はこのへんにしておくが、
しかし、相手が文学や映画となると
やはり触れないわけにもいかない。
何しろ、そこが話のキモ、一番美味しいところなのだから・・・
それ相応に、感情を揺すぶられるものが色々とある。
何より実にスリリングなのだから。

そんな「サイコ」ときけば、
まずヒッチコックの『サイコ』に触れぬわけはいかないだろう。
ある意味、今から60年も前に、このサイコ(プシコではない)という言葉が
社会通念として一人歩きし始めたのだ。
半世紀も前の映画とはいえ、元祖サイコスリラーの傑作は
今をもってしても色あせてはいない。
ひさかたぶりに観直してみたのだが、
やはりその名に恥じない出来、やはりあのヒッチコックの映画の中でも
言わずもがなの傑作であることを改めて実感する。
初めてみたときの、なんともいえぬざわめきを思い出していたのだが、
それもつかの間、あまりにも没頭して入り込んでいくうちに、
過去にみたと言う記憶などとうに薄れ
新たに再び完全にその世界に呑まれてしまうほどである。
意識はその場、その瞬間に刷新されてゆくものだと感じぬわけにはいきますまい。

サイコパスの当事者、アンソニー・パーキンス演じるノーマン・ベイツが現れるまで
冒頭の不倫カップルがいったいどんな厄介な事件をまきおこすか、
のんきにそんな安易な想像に身をまかせている人がいるのだとすれば、
徐々にあらわになるどんでん返しとの振り幅の前に、さらに驚きは増すだろう。
全ては、この巨匠の思うツボである。

ちなみにジャネット・リー演じるマリリンの恋人サム・ルーミスは
ダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』で
ヒロインを支える良心的な2枚目の男を演じているのを
ついこの間映画館で見たばかりだった。
なにしろ、のっけから、そんな大それたことをしでかしそうもない男と女の
雲行き怪しき不倫情事から始まるのだ。
たかだか恋愛沙汰の、いっときの出来心から、
それまで真面目に働いてきた女が
会社のお金を横領することで雲行きが怪しくなってくる。
いったいどんなことになるのやら?
女を不安に貶めるのは、もちろん他人の目だ。
ミステリーものの定番のように
序盤から、この手の逃亡者にはこうして疑惑の視線が浴びせられる。
実に周到に伏線が敷かれているのだ。

女をとりまくサスペンス感は、
ノーマン・ベイツが管理するモーテルにまできて
少しずつ、なにかが音もなく崩れ始める。
好青年風に現れるモーテルオーナーであるノーマン・ベイツが
よもや多重人格者だとはだれも思わないような態でふと現れると事態は一変する。
このいちげんさん犯罪女に親切にし始めるのだ。
だが次第に、この男がどことなく、怪しげに、
まるで何か刃物を突きつけられているかのように
繊細に怯えているかように見え始める。
物腰は相変わらず柔らかく、見知らぬ訪問者を
優しく歓迎しようとしているが
次第に話し相手として饒舌に自分のことについて話し始める。
どうやら、このままいい人で終わりそうもない・・・
そんな不安がよぎるはずだ。
どこかドラキュラでも生息してそうな隣接するお屋敷から
母親と言い争うベイツの姿が確認される。
それがどんでん返しのはじまりなのだ。

それにしても、部屋に飾られた鳥のはく製の不気味さ、異様さ。
ヒッチコックと言えば、あの『鳥』を想起せぬ訳にはいかない。
それにもまして、よく見れば、このベイツ自身がやはりなんとも怖いのだ。
ちなみに、ノーマン・ベイツといえば
アンソニー・パーキンスのはまり役でもあるのだが、
当然のごとく、この映画を機に、こうした役どころばかりオファーが繰り返され
それが悩みの種だったとか。
いかにもあるあるだ。

さて、まさにサイコパシー的な振る舞いを見過ごすまいと、注視していると、
泊り客の様子を覗き穴からの観察するベイツに
なにやら事件の匂いが激しく焚き付けられてゆく。
そして、有名なシャワーシーンで女にすべからく悲劇が起きる。
このわずか一分にも満たないシーンだが
当時の観客には実にショッキングなシーンとして刻まれることになる。
実際に刺されたシーンなどどこにも無いにも関わらず、
その緊張感たるや尋常でない。
改めてすごいシーンだと思う。
何しろ、ヘイズコードギリギリの殺人シーンであり、
バーナード・ハーマンの金属的な効果音と旋律が
これ見よがしに迫ってくる映画史に残るシーンだ。
何しろ、見せ方が見事である。

設置したカメラ数が77台。
カット数は52を数える。
巧みに編集されたこのシーンの撮影だけで、
本編の三分の一の撮影スケジュールを消化したというから
ズバリここが力の入れどころである。
獲物が仕留められ、断続的に聞こえてくるシャワーの音と
バスタブを流れる鮮血と水。
それを待ち受ける排水口のクローズアップから
死んでタイルに頭をつけたジャネット・リーの眼球が重なって
ゆっくりと回転してゆくショットは
何度見ても鳥肌が立つほど素晴らしい。

そうして、今度はいなくなった女を巡って
身内の者たちの懸命の捜索が始まり、
このベイツホテルで足取りが消えたことに不審を抱き始める。
こうして、やってきた私立探偵の男が餌食になり、
いよいよもって、怪しい。
ついには不倫相手の男とマリリンの姉がいよいよ匂いを嗅ぎつける。
いったい犯人は誰なのだ?
いよいよもってサスペンスはクライマックスへと向かう。

とまあ、話の筋は概ねこういうことになるのだが、
結論をいってしまえば、ベイツには死んだ母親が乗り移り、
自らを案ずる、というか、いびつな愛情の形を刺殺する形で
次から次と生贄を増やしていたのである。
つまりは殺人を犯すときは自分では無い、
母親の人格が君臨するのである。
息子への嫉妬から、母親が息子に成り代わって殺人鬼となる。
その母親は当然死んでおり、ベイツ自身ではないのだが
すべて母親が命じたことだからと、
結局は精神疾患であり、責任能力を問えないと判断されてしまうのが、
これまた恐ろしい結末である。
こうしたケースは今日の猟奇的な事件からも聞こえてくる現代的な現象だと言える。

もっとも、ことの発端が、
不倫の果てに金に目がくらんだ女の哀しさとして端を発しているだけに、
この展開のスリルはサスペンスとして、
じつにしたたかなまでに王道的に進行してゆくのだ。
こうなるとヒッチコックの思うがままである。
実際の屋敷に、母親が生きているのか、いないのか、
そのあたりの謎解きに手に汗握るところだが、
人格を複数かかえながら巻き起こす
人間の精神の危うさをみごとに体現したシーンの数々に震撼させられるばかりである。

逮捕されたのちに語られる真実はあまりに衝撃的だ。
2人の人格が同居するベイツという男の正体。
二人いることの弊害は内部で闘争が起きることである。
勝利したのはベイツ自身ではない。
「母親」であり、息子とは無関係なのだ。
その息子を完全に支配下においた母親の姿として
ラストシーンは、毛布を羽織って椅子に腰掛けているノーマンの姿を映しながら、
いみじくも自分は無害であると言う「母親」の声が流れ、
やれやれ、息子をあたかも悪魔のごとく憐れむのだ。
そのノーマンのにやついた顔のアップの不気味さと恐ろしさ。
一瞬母親の死体の顔が重なるのは偶然ではない。
そしてモーテルの裏にある沼の底からは
沈められた女の車が引き揚げられたところで終わっている。

ノーマン・ベイツという個性、多重人格、
このヒッチコックおそるべしのサイコスリラーが
多くのサイコホラー作品に多大な影響を与えてきたのは周知の事実である。
暴力、倒錯、精神異常、このようなアモラルな映画を
検閲ギリギリの演出と低予算で撮り上げ大ヒットを記録。
公開当時、ヒッチコック自身が「途中入場の禁止」や「ストーリーの口外禁止」を掲げ
用意周到な演出でもって、観客を厳密に統治し
その効果を最大限に引き出そうと試みたその狙いがまんまとはまったのである。

それから今日のホラーブームは手を替え品を替え
表現、テクニックにおいても劇的に進化し続けて
いくらでも複雑かつ奇をてらったものはあるが、
やはりこの『サイコ』こそはそれらの原点にある作品だと言って過言ではあるまい。
ちなみにこの『サイコ』には、ヒッチコックの手を離れててはいるものの
続編が4まであるのだが、続く『サイコ2』もなかなか面白かった。
またいずれこちらの続編も追ってみたい。

ちなみに、ちょっと妙なことを考えた。
もし、仮に、ノーマン・ベイツという多重人格者
このサイコパスが、全く殺人を犯していなければ、
それはそれで、映画はここまで盛り上がったのだろうか?
つまり、単なる奇異な性格として片付けて、
それを描いたものであったとしたら・・・
そういう作品もあるし、描き方の問題だから一概にはいえないが、
やはりホラーと殺人はセットで描かれることが圧倒的だ。
そう考えると、人はふいに死んだり、あるいは不条理に殺されるということに
そもそも根本的恐怖を感じている、ということを意味するのだろうか。
そんなことを考え始めるとキリがなくなってくるが、
そう簡単に結論づけられるテーマでもないし、
今日はこの辺でおひらきにしておこう。

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