中上健次『十九歳の地図』をめぐって

『十九歳の地図』1979 柳町光男
『十九歳の地図』1979 柳町光男

地図をめぐる覚書

むかしから、地図をみるのが大好きだった。
地理の時間は、窓の外かおおむね地図に見入っていたっけな。
世界地図も好きだったし、産物マップなんかも好きだった。
地名をよみあげるときに、ひっかかる何かがとても素敵に思えたし
知らない国や町の生活を想像するのも楽しかった。
マゼランも、コロンブスも、マルコポーロも、
そんな話しをしたら、きっと目をキラキラさせて
身を乗り出しながら食いついてきたに違いない。

天気図もそうだけれど、地図の魅力、
それはなんといってもグラフィカルに美しいことだ。
ときおり鳥瞰写真をみると、そんなことを考えてしまう。
それは図というよりは、
天然の地形のアウトラインなのだけれど、うっとりする。
三陸のリアス式海岸やノルウェーのフィヨルドなんかをみると、
今でもゾクっとするのだ。

地図といえば、伊能忠敬のことにも触れないわけにいくまい。
足かけ17年をかけて、日本全国を測量した成果が
『大日本沿海輿地全図』として、
今日の地図の基礎になっていることぐらいは、
学校で歴史の授業をサボらない限り誰でも知っているはずだ。

49歳で隠居、が50歳のときに江戸に出てからがスタート。
事業から一転、天文・暦学を学び始めたというから、
人間、いくつになったって、
気持ちがあれば歳なんて関係ないね、
ってなことの典型的人物だと記憶されていい忠敬の功績は、
今みたいに、衛星から世界を俯瞰し、
PCひとつあれば、いったことのない場所でさえ、
容易に窺い知れる時代ではなく、
それこそ、汗水たらして日本全国を行脚して勝ち取った
奇跡のような軌跡としての地図。
そんな地図が素敵じゃないはずが無いじゃないの。

さて、物質としての地図から離れ、
人間には心の地図というものがあり、
どんな職場、環境にも“地図のごときもの”はあるかと思う。
素の地図とは、ホームポジションのありか、
自分の居場所を確認すべき指標とでもいうべきだろうか。

そこからまず思い浮かぶのが、
安部公房の『燃えつきた地図』だ。
これはいわずとしれた、
安部公房〜勅使河原宏、前衛コンビの作品である。
サウンドは当然武満徹。
(ちなみに安部公房〜勅使河原宏シリーズの私評としては、
『砂の女』>『他人の顔』>『燃えつきた地図』>『おとし穴』
文学と映画でいうと『砂の女』は互角、
あとは文学の方が圧倒的に面白いと思っている)
ただし、原作をこえるほどいい出来ではないとはいえ、
映画的には市原悦子と渥美清がいい味を醸している。

失踪者の捜索を依頼された探偵自身が、
みずからを見失い、結果的に失踪者になる話である。
勝新 meets 勅使河原によって、
勝新は自らプロダクションを立ち上げ
映画監督へと乗り出したという事実がある。
観念を映像化するってことは生易しいことじゃないのだが、
誘惑にあらがえぬ魅惑の失踪劇の地図である。

都会−閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。 すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。 だから君は、道を失っても、迷うことができないのだ。

安部公房「燃えつきた地図」より

こうなると地図は楽しめなくなるばかりか混迷を極める。
ここで、自分探しの旅の地図を思い浮かべてみよう・・・
ただし、さらにひどいことに番地も名前もなく、道があるだけだ。

素MAP、世界に一つだけのぼくをめぐって

混迷を極めた若者なら
『十九歳の地図』という別口の地図もある。
これは中上健次の四つ短編からなる作品で、
痛みとやるせなさの残る初期の傑作である。

新聞配達をしながら予備校に通う19歳の青年秋幸が、
地図をつくり配達先の各家々に×印を付け
憎しみのランク分けしていく話。
さらに公衆電話から恨みをはらすかのように
「制裁」としての罵詈雑言を吐く。
最後は、東京駅に「爆発させるからな」と
涙を流しながら偽りの脅迫をする。
十九歳の憎しみはいったいどうやって浄化されうるのだろう?
荒れ果てた地図に、こっそり“やさしさ”という文字を
書き込んでやりたくなる。

一方、それは柳町光男によって映画化されているが
こちらのほうは原作のもつ青年のやるせなさ、
虚無感がうまく描かれているように思う。
主人公秋幸の本間雄二もいいけれど、
紺野の蟹江敬三が実にいい味をだしている。
情婦「かさぶただらけのマリア様」のくだりが泣けてくる。
淫売でありながら、聖女でもあるのだ。
つまりは、心身ともに自らを支えてくれる指針のような存在、
そんなマリア様を囲んだ、
ひたすら善悪の彼岸を奔走する若者たちの虚無感。
ダイレクトシネマのような手持ちカメラが、
中上文学のエッセンスをつかんでいると思う。
きれいに収まりきった澄まし顔の映像より
何倍もすがすがしいのだ。

十九の頃、ぼくも同じように虚無に取り憑かれていた気がする。
といっても、尾崎豊の歌なんかで
虚無を払拭できるとは思っていなかったが。
(尾崎豊はこの映画を見て「十七歳の地図」を作ったとされている)
それは憎しみでこそなかったが、
味気のないガムのようなものだったのかもしれない。
虚無を乗り越えるために、
いまのぼくなら、どんな地図が描けるだろうか?
ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』のなかで
読み上げられるロサリア・デ・カストロの詩を思い出す。

もはや、怒りも軽蔑もない
変化の恐怖もない
渇きがあるのみ
あまりの乾きで死にそうだ
命の流れよ、どこに進む?
清らかな大気がほしい
暗い深みに何がある?
私に見えるのは、盲者が陽の下で見るものだ
二度と起き上がれぬ奈落に落ちる

シナリオ・吉岡芳子訳

だれも奈落になんて落ちたくはないだろうが、
虚無を装った偽の不幸にはぞっとする。
あらためて“幸福”という地名を、
今のぼくの地図の上に書き記しておこうと思う。
結局のところ、地図は自分で好き勝手
書き換えてもいい自由なものなんだと、
いまの僕は考えているのだ。
世界にたったひとつしかない地図に、
いくら手を加えたって、誰にもわかりゃしないんだから。
ぼくは堂々とぼくの居場所を書き留めるだろう。

そして、最後にこう付け加えよう。
それには国もない、国境もない。
無論、輪郭もなければ、方角もない。
全ては白い紙の上で地続きの道だけである。
意味のないメモ書きだけが
染みのようににじんでいるかもしれない。
道が途切れていようと、あるいは行き止まりであろうと
所詮、道は道なのだ。
みわたせば虚無という名の砂漠があり、
深い悲しみの湖、そして絶望という名の山まで見える。
少し先には、希望という名の川があり、
気がつけば、欲望という名の海に出る。
けれどもそれを超えたところに
愛であふれた村があり、僕はひたすらそこを目指す。
そこに旗を立てて、君に知らせよう。
この世の果てなどどこにもないのだと。
この歩みをやめない限りにおいて、
僕はその地図を片時も離すことはないのだと。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です