志村喬スタイル「生きる」の場合

『生きる』1952年 黒澤明 東宝

いきるな、ほたえるな、行ききれ、生きろ魂よ

今、この男について語るのは退屈なだけだ。
なぜなら彼は時間を潰しているだけだから。
彼には生きた時間がない。
つまり彼は生きているとは言えないからである。
これでは死骸も同然だ。
いや実際、この男は20年ほど前から死んでしまったのである。

黒澤明の名作「生きる」を観るのは何十年ぶりだろう?
当時銀座「並木座」という
日本映画専門の映画館で観たんだっけか。
いやあ、今でも、やっぱりいい映画であることには変わりがないけど
視点を変えると、これって喜劇だったのかも、って思う。
だから、目頭が熱くなる、ではなく腹がよじれるって寸法だ。
ま、そこはちょっと言い過ぎか、失敬。
そこまでのコメディではないんだけれど・・・

確かに、主人公の志村喬演ずる「渡辺課長」が
あとわずかで30年間皆勤のはずが、
余命わずかの胃ガンだと知ってから、
会社を欠勤し、女の子と遊び回ったりしながら、
それまで“死んでいた”時間を取り戻すかのように決意して
命をかけて、ひとり役所の慣習にあらがって
公園を作るってだけの話なんだが
てっきり、悲壮でしんみりくる話だと記憶していたところ、
それがなんてえのか、実に可笑しいんだなあ。
誤解を恐れずに書くなら、不思議に愉快になってくる映画なのである。

まず、これって、ドイツ表現主義的なコントラストの強い画風で
怪しさ、不気味さを演出しているんですけど
志村喬の表情が、どうみてもコミカルなんだな。
なんていうのか、漫画チックと申しましょうか。
描写ひとつひとつが丁寧であり、細かくも
演出としては、実にわかりやすく、シリアスには見えない。

そして、これはある意味、権力へのアイロニー満載で
役所の組織構造そのものの無能さが悪そのもので、
そのばかばかしさを、あえて強調しているがゆえに
そこに笑いが起こるようにできている気がしてならない。
だから、主人公が、死を自覚することで
「生き」はじめるこのシリアス風なドラマも
かえって、そのザマこそが人間という愚かなものをあぶり出し
笑える仕組みしたてているんだなあと
改めて考えさせられるのであります。

そこで、後半は主人公が死んで、お通夜の席から
そこにフラッシュバックで
公園建設時の諸々が挿入されるという構成なのですが、
この辺り、うまいよなあ。
というか、つかみはバッチリだ。
最初は、役所の無能な構造に流されていた人間たちが
志村喬の命がけの「最後の生き様」の暴露によって
しだいに、真実を理解してゆく様子がどうにもコントそのものなんです。
ひとりひとり徐々に高揚していって、
一度は、そこで主人公と同じく、“生き“ようと自覚するんだけど・・・
最後はまた、同じ役所のリズムにもどってしまうんだね。
惰性の弊害というものは現実こういうもの。
そこできれいさっぱりみんな改心されたって興ざめすぎる。
そういう意味で、よくできたコントのなんだなぁ、これは。

死刑宣告に絶望的な志村喬を、
“生“の現場にひっぱっていこうとする、
こういう映画ってやっぱり黒澤節とでもいうのか、
いってみれば男の映画だと思う。
売れない小説家設定の、伊藤雄之助の、
いかにもぴったりなドイツ表現主義的な顔もいい。
公園建設計画を邪魔しようとするヤクザたち、
加東大介や宮口精二の漫画的な強調メイクも、
左卜全のなにをいってるのかわからないとぼけた可笑しさも。
演出が少し過剰なところが、舞台コントみたいな感受性を呼び起こす。
おわらいでいうところのボケとツッコミが明確化されているわけだ。
病院の患者で、胃がん患者の実情をとくとくと語る渡辺篤。
いかにも、うさんくささ全開の助役、中村伸郎節など、
けっこう、豪勢で個性的な俳優陣のなかでも
志村喬のあのなんともいえない表情と声が
やはり大きいんだな。

なんといってもはずせない、
雪の中ブランコにのっての「ゴンドラの唄」のシーン。
確かにぐっとくるのはあるけれど、
むしろ、今回はずっと微笑ましく観れた。
でも、いいんですよ、たらこくちびるの志村喬がそこにいるだけで。
これがまるでぬいぐるみなんだな。
部屋に飾ってあっても不思議じゃない愛おしさがある。
決して上手とか、うなるとかっていう演技じゃないんですよ。
でも、なんかほわんと伝わってくるものがある。
そこが志村喬の魅力っていうのか、
その人間味というのか、
演技を超えた何かが映画のチカラの働き所なのです。

志村喬といえば、『七人の侍』の「勘兵衛」像もいいんですが
やっぱり「生きる」の方が感情移入しやすい。
時代を経た、傑作であることはさておき、
とてつもなく、そこにはあからさまな「人間」が
きっちりと描かれている。
そこは同時に日本映画全盛時の映画としての豊かさもある。
サイレント映画風の画像。
市民課のセットや、光の具合、役者の個性諸々。
なにより台本とそのベースの人間観察が丁寧に掘り下げられいる。
そこに、黒澤と黒澤組が醸す醍醐味を再発見しました。
黒澤作品は、かように後味がいいものが多い。
世界中で受ける理由もそこにあるんでしょうね。
それが単純すぎるきらいもあるんだけれども。

** 今日の教訓

関西ではカッコをつけることを“イキる”、と言いますが、
つまりちょっとした青二才に向けての言葉ですが、
ここでの生きる様はまさに、肉体的な死などではなく、
精神的な死に対して、改めて生き直す、
生きようとがんばってみる、という意味に他ならないのでしょうが、
精神的な死に甘んじるくらいなら、
ここはひとつ、イキってでもかまわないから
がむしゃらに生きてみようと言っているようにも、
解釈できなくはないところ。
その意味ではそこが黒澤映画の神髄であり、
魅力なんだと申し上げておきましょう。

ただ、映画を超えて、なにかひとつ学ぶとすれば
まあ、普通なら、人間たるもの
たとえどういう境遇であれ、あきらめずに
成せばなる、ということなんでしょうか?
それとも、根源的に内なる声に誠実であろうという姿は
どうあれ美しい、ってな観念的なことなんでしょうか?
それはむろん、聞こえればの話ですが。
自分なりに決着をつけるとなると、
要するに魂が「生きる」か「死ぬ」か
そこが問題だというわけなのです。

この「生きる」の渡邊課長は死という現実が引き金で
魂が息を吹き返したことによって、「生きる」という
本来の意味を見いだすことが
人間としてのゴールであると同時にスタートとして描き出されている。
魂の自由に目覚める女工とのシーンで、
「ハッピーバースデイ」が流れるのはそうしたことなのであろう。

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