アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!』をめぐって

フルスタリョフ、車を! 1998 アレクセイ・ゲルマン
フルスタリョフ、車を! 1998 アレクセイ・ゲルマン

アナーキー・イン・ザ・ロシア。これぞゲルマン流素っ頓教に乾杯。

俺の存在を頭から輝かさせてくれ
おまえらの貧しさに
おまえらの貧しさに 乾杯!

「ワルシャワの幻想」スターリンより

スターリンと聞けば、無邪気にも
遠藤ミチロウ率いるパンクバンドのことを
真っ先に思い浮べてしまう程度の知識で、
かつて、ロシアに革命をもたらした“鋼鉄の人”スターリンについて
真面目に語ろうなどという大胆な目論見はここにはない。
が、そのスターリンをいみじくも意識させられる映画を
これまで三度にわたってみてきている。
果たしてスターリン、何者ぞ?

一つはホドロフスキー自伝的作品
『リアリティのダンス』でのスターリンから。
ウクライナから移民してきたロシア系ユダヤ人の両親。
その息子(ホドロフスキー)を亡き父の生まれ変わりだと盲信する母親は、
金髪巻き毛のカツラを被らせ「お父様」の幻影をみる。
怪しげな「ウクライナ商会」なる商売を営んでいる、
その店の壁には、スターリンの肖像画が掲げられている。

もう一つはジャパニーズホラーの草分け高橋洋の、
その名も『霊的ボリシェヴィキ』。
ボリシェヴィキ党歌を高らかに斉唱するゲストと呼ばれる男女たちが
得体の知れない実験室のような空間で
霊的体験について語り合う奇妙な儀式を俯瞰するのが
これまたレーニン、スターリンの遺影。

そしてアレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』
1953年に起きた医師団陰謀事件の際
スターリンの死亡を確認したソビエト秘密警察長官ベリヤの、
最初に発した言葉がそのままタイトルになっている。
フルスタリョフとは、側近運転手に過ぎないのだが、
いみじくも臨終まじかのスターリンの片腕ベリヤの
言葉が象徴的に使われているのだ。

こちらがスターリン像に触れるには
もっとも近しい作品であるはずなのだが、
そうはいっても何しろ、一筋縄ではいかない癖の強い、
また、なんとも癖になる映画なのだ。

それにしても、ロシアという国は遠くて近い、
近くて遠い国だということに妙に納得させられる映画でもある。
これまでも古くはメド・ヴェトキン、バルネット
そしてタルコフスキーにソクーロフ、
カネフスキーにパラジャーノフといった
数々の天才を産出した大国ロシアのレンフィルムに触れてきたが、
このアレクセイ・ゲルマンを避けて通るわけにはいかない。
絶対に理屈で割り切れない、
頭だけでは到底つくれない映画を前に、
語るべき言葉とひたすら格闘しながらも
スクリーンの前の興奮をなんとか伝えたいと思うのだ。

実はこれでもすでに二回目も観ているが
最初観たときの何ともいえぬ興奮が
冷静に言葉を書き連ねられるようなものでないものだったがゆえに
それを打破しようと再びトライしたのだが、
それでもやはりわけがわからない。
ただ映画を観たという思いだけがいつまでも脳裏から離れない。
実に得体のしれない作品を前に
奇妙なまでの当惑を抱え込んでいる。
それをもう少し冷静に思い返してみたい。

1935年、少数民族の粛清、
浄化を掲げた反ユダヤ主義国家ロシアを舞台として、
虚無、焦燥、混沌が入り乱れた社会が反映されている。
独裁者スターリン時代の赤軍の将軍であり
大病院の外科医師ユーリー・クレンスキーの運命を描いた
反ユダヤ色の濃い、政治的な映画である。
KGB(秘密警察)が企てたこのユダヤ人医師の迫害計画が絡んでいる。
スターリン体制の裏側がかいま見れたりするとはいえ、
政治的なのは背景のことで、
ここには実質、ロシア人の生き様というか、
「知性でロシアを理解することはできない」と
ゲルマン自身がいうような
素っ頓狂なロシア人気質が風刺的に描かれているのである。
そこがなんとも面白い・・・

ただし、一言で片付けるなら、なんじゃこりゃ?
理解しようとする思いがことごとく粉砕される。
次第にその狂騒劇のようなばかばかしい魅力に悪酔いしまうだけなのだ。
圧倒的なまでのエネルギー。
物語を追う意味はない。
いや、どうにもこうにも追いきれんのだ。
このはちゃめちゃぶりを素直に受け止めるべし。
恐るべしやロシア帝国。
いや、おそるべしはゲルマンか。
カンヌでの上映の際には
ことごとく観客を離脱させてしまったものの、
あのスコセッシが「何が何だかわからないが、すごいパワーだ」といったとか。

これは言うなればロシア版「ユビュ王」だ。
いたるところにパタフィジックのうねりが逆巻いている。
カメラに向かって吠える犬。
地面には唐突に開く傘。
「ブー」だの「プップー」だの意味なき擬音を呟く登場人物たち。
『シャイニング』の双子よろしいユダヤ人姉妹が
語り手の少年に猥雑ないたずらを試みれば、
死に伏したスターリンから最後の屁が放たれる。
ありゃ、ロシアじゃなくても「発禁もの」じゃござんせんか?
何しろ、車の部品を盗もうとして中を伺っただけで逮捕されるボイラーマン。
これだけで10年間も刑務所に叩き込まれるような国なのだ。
「どうして俺ばっかりこんな目に遭うんだ」と嘆いてみても如何しようも無い。
最後は列車の上で、禿げ上がった頭に
ウォッカだかなんだかを注いだコップを乗せたユーリーが
くわえたばこでバランスを取っている。
酒をこぼさずこのままカーブを曲がりきれるかどうかが
見ものなのだ・・・
しかし、最後に「くだらねえ」、こう吐き捨てるだけだ。
こうして狂騒劇に一応の落ちというのか、
幕が降りるだけである。
列車はいずれどこかにたどり着くだろうが、
ロシアの混沌はどうにも収まりそうもない、
ただそんな空気だけが充満して終わる。

やれやれ。
この素っ頓狂な振る舞いの数々は
歴史による犠牲者たる民衆たちの憤懣やるかたなき感情の発露なのか?
はたまたこれがロシア人の気質なのか?

とにもかくにも濃密なコントラスト、
モノクロームの神秘に隠された群像劇の悪夢は圧巻である。
輪をかけて凄まじいカメラワーク。
なんだか生き物もののように
そこには常時十人ちかくの人間が渦巻いている最中
空間を縫うようにして、すぅ〜とスピーディーに被写体を追いかける。
まさに忍者のごとし。
なんという濃密さ。
暑苦しく、息苦しいこと!
これがカオスでなくしてなんだろうか?

こうして映画を通して
ロシア帝国の混沌ぶりの目撃者になった気分だけはある。
確かにある。
だが、心は晴れようもない。
すっとするようなものは何一つない。
あえて、これには傑作というような無責任な言葉で片付づけたくない。
やはり問題作だという他ないのである。
それほどまでに凄まじい現実を想って、
このメタフィクションの現場から一度生還するとしよう。
そして、叫ぼう。
「スターリンに乾杯!」、いや違った。
ゲルマンに乾杯。
ゲルマンの豊かさに、改めて乾杯!

The Stalin :ワルシャワの幻想

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