マレーヴィチ、シュプレマティスムをめぐって

マレービッチ シュプレマティスムのティーポット

午後三時のシュプレマティスム

シュプレマティスム。
午後3時のちょっとしたブレイクタイムなんかに
考えるようなことじゃないのかもしれない。
そう、マレーヴィチの無対象性、あるいは絶対主義について。
シュプレマティスムなんて言われて
すぐにピンとくる人は、相当な美術通、芸術通なんだと思う。
知っているからといって、なんのトクもないことだけは保証しよう。 

やれキュビズムだ、フォービズムだ
シュルレアリスムでもダダでもいい、
あるいは構成主義やら表現主義、未来派などといった
美術的な体系を、あたかも記号のように並べても
そもそもアートには常に対象となるものが存在し
それをどう提示するか、表現するか、
そこには飽くなき考察と実験が繰り返し行われている。
そんな中でこのマレーヴィチという人物は
対象をなくすことで、究極の絵画への道に行き着く、
いわば思想のようなものを持ち込んだのである。
それがいわゆるシュプレマティスムの骨子である。

マレーヴィチは「黒い正方形」で
美術史に決定的に名を残した人で
これを凡庸で、退屈だといってしまえば
あらゆる絵画などあって無いようなものになってしまう。
網膜的な快楽が葬り去られ、全てが泡のように消えてしまう。
それほど突拍子も無いコンセプトが
19世紀初頭ロシアから生まれたのである。

戦前、日本でも前衛芸術は国家を乱す、
言うなれば危険因子として見なされ、
弾圧の対象になっていたぐらいだから、
スターリン体制下のロシアで
こんなアヴァンギャルドな思考が受け入れられるはずもなく、
その命がけとも言えるマレーヴィチの絵画に対する挑戦を
軽々しく受け流すなんてできないよなと思ってしまう。  

ただ、対象なきものを表現するということを理解するのは
あまりに難解だし、それを人にどう説明していいものやら悩ましい。
それこそ、なにも言わない、なにも考えない、
言動のいざりとなってやり過ごすことしかできないのだ。
対象に縛られないと言う意味だけなら、
シュルレアリスムの自動手記、
すなわちオートマティシズムだってそうじゃないか、
などと言えなくもないが、
遠からずにしても、やっぱり違う。
いや全然違うなあと思う。
ここにあらゆる抽象絵画の原点がある。

感覚のみに頼って、
その思いをキャンバスに表出させんとすることで生まれた絵に
感情移入するほうが難しいが
そこで発表した「Black Square」通称「黒い正方形」。
白い四角いキャンバスの上に
黒く塗りつぶされて四角が描かれた一枚のタブローは、
ある意味、ピカソのキュビズムやデュシャンのレディメイド
と言ったエポックメイキングな作品と同等に並びたつ、
衝撃的な作品だと言う解釈によって、
市場で59億円もの価値を生み出してしまうのだ。
素人には太刀打ちできないヤクザな世界だ。
まるで北園克衛の詩のようなリズムを持った絵画「Black Square」は
これぞ究極の抽象画と言っていいのかもしれない。

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなかの
黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

北園克衛「単調な空間」より

ウイリアム・バロウズのカットアップの技法を、
作詞に取り込み、絵画に並並ならぬ関心を抱き、
自らも著名な蒐集家でもあった、
今世紀最大のロックスターデヴィッド・ボウイが
まさか、遺作「Black Star」で
マレービッチの絵画を念頭に置いていたとまでは言い切れないが、
そう言うカラクリがあっても一向に不思議じゃ無いのである。  

けれども、マレーヴィチは単なる抽象画家ではない。
元は純粋な印象派絵画の洗礼を受けているし
アヴァンギャルド(といっていいかは別として)
を経た晩年にも印象派に再び回帰している。
一枚一枚の絵を見るとき
ウクライナの風土に根ざした
人間的情感が浮かび上がってくるような絵も随分拝見できる。
だが、そんなマレーヴィチの
このロシア構成主義的なティーポットを見れば
なんだかホッとするのはなぜだろう。
「なんだこれは?」と思っても、別に目をそむけるようなものではない。

ここにはシュプレマティスムの概念を
再び対象へと戻したかのようなわかりやすさがある。 
これがもし一枚の平面的なタブローだったら、
アヴァンギャルドなロシア版モランディが出来上がる。
それはちょっとモダンで、
ちょっと変わっているけれど、
みていて飽きがこない造形としての斬新な美がある。
「Black Square」ほどの衝撃はないかもしれないが、
単純にフォルムとして面白い。
おまけになんの意味もなく時計などが目に飛び込んでくるから
これはポットでは無い」と言われたら
なるほどそうかも知れないと当たり前のように納得してしまうだろう。
もちろん、時計でも無い、というような
そこに新たにマグリット風のレトリックを引っ張り出せば
なおもニンマリしたくもなるが、
そこまでいくと落語の世界である。

それにはシュプレマティスムなどを持ち出すまでも無いが
ただし、これで仮にお茶を煎れ飲むとすると考えてみると
話はちょっと変わる。
それこそ、思わず吹き出しそうだ。

もちろん、ここでは実用性などなんの意味もないが
サンクトペテルブルクの老舗「帝国磁器工場」にて製造された
マレーヴィチのティーポット(ティーカップもある)で
お茶を煎れ飲んだところで文句はあるまい。
(いや、そのほうが敷居が高いかもしれないが)
ただ、お茶の葉がポットの中で
最大限旨味を抽出するための空間性を必要とするなどと考えれば
これほどの無粋なポットはないということになるが、
世の紅茶好きにはポットの形なんてどうでもいい。
何故ならば飲みたいのだ。
紅茶を胃の中に流し込みたいのだ。
中にはそんな飲めればいいという人だっていてもいいだろう。
こんなポットが目の前に出現した時の
人のリアクションというものを考えるだけで
これまた奇妙なおかしみがもたげ始める。 

それは「Black Square」にわざわざ59億の価値を見出すような
そんな大げさな思想の均衡を崩すようなものではない。
たわいもないことである。
単純に面白い、と言うだけのことである。 

でも、たまたま入った、いかにもそれらしきカフェで
一旦マレーヴィチなどという存在など頭から切り離したとして、
あらゆる邪念を離れれば離れるほど
そのポットが悩ましきものとして顕在化せしめてくる。
新たな問いが生まれてくるのだ。

例えばダージリンやアールグレーを注文して、
こんなポットが不意に運ばれてきたと想像すると
あなたはどういう反応をするのだろうか?
まず、一度店の佇まいを見渡して、
自分が門外漢でないことを確認するだろうか?
そうして、入る店を間違えたと思う人もいるかもしれない。
これはなんですか、と尋ねても不思議ではない。
それこそ、美術的な素養があるなしに関わらず
物事に対する、つまりは目の前にある対象物に対する
その人の思いだけが見事に抽出されるだろう。
まさか素通りして、平然と茶を嗜むなどという人はいまい。

なんとも楽しいことではあるまいか? 
これならくだらないテレビ番組にでも
採用されるかもしれないネタになる。
それは単なる美術品としての鑑賞領域を超えて
ユーモアとして捉えれば愉快な気持ちになれるし、
紅茶を嗜むことに重きを置くなら、
憤慨する人もいるのかもしれない。
でもやっぱり、お茶は通常の丸いポットがいいなとは思う。

要するに美術は美術。
お茶はお茶。
お笑いはお笑い。
そして3時にはちょっと一服。
頭を休めるのがよろしい。
人間にはそういったメリハリが大切なんじゃないかな。
結論はいたってシンプルだ。
ものごととは所詮、相対的なものなのである。

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