ポール・デルヴォーという画家

PAUL DELVAUX
L'ombre PAUL DELVAUX

母の呪縛はファムファタルを夢見続けたデルヴォー爺の甘く切ないロマンに沈む

ベルギーの画家といえば、
真っ先にマグリットの絵を浮かべてしまうところだが、
ここにもう一人、ポール・デルヴォーの名を忘れるわけにはいかない。
マグリットがまさにシュルレアリスムの画家と言って差し支えのない、
形而上学的で、無意識下の心理をくすぐる絵だったのに対し、
デルヴォーの場合は、シュルレアリスムの画家と呼ぶに、
どこか躊躇してしまう何かがある。
上品で優美な写実的風景が横たわっており、
シュルレアリスティックな夢の領域だけではどうも収まりが悪いのだ。

ブリュッセル美術アカデミーで絵画を学び
フランドル絵画からジェームス・アンソールの影響を経て辿りついた二つの道標、
すなわち乱暴な言い方をすれば、キリコの風合いに
マグリットの人物が現れるような佇まいの中で、
裸婦たち、汽車、あるいは駅、
そしてローマ風の宮殿、骸骨。
こうしたモティーフが繰り返し登場するようになる。
だが、そこだけを切り取って
シュルレアリスムの洗礼を浴びせかけるには無理がある。

どこか虚無的というのか、
絵に潜む何かしら呪縛のように重い想念を一心に引きずり
時間を止めて絶えずひたすら何を待ちわびている思いを感じる。
美しい。
美しいけれど、そこはかとなく淡く脆い夢のようだ。
もはやこの世のものでは無いかのような
静謐なる気配の中にいる女たち。
絵の中で視線すらも身動きができないのだ。

裸の女たちは皆一様に似ており
大理石のような微笑みを携えながら
また男たちは小道具のひとつとして、
周りが目に入らぬほど、片隅に置かれている。
この感情、この思いをどう捉えれば良いものか?
絵の前に佇んで失われた時間の中に埋没してゆく。
幻想的、官能的、バロック的etc…
どう形容してもうまくはまらない気がしてしまう。
鑑賞者はおそらくその謎を神秘と受け取るかも知れない。
あるいは観念的な美をもって称賛するかも知れない。
絵を見ているだけではその正体はつゆもつかめそうもないというのに・・・

デルヴォーは母親に溺愛された画家だった。
両親の反対にあい、
アンヌ=マリー・ド・マルトラールこと
愛称「タム」という宿命の女を
18年もの間ひたすら絵画の中に閉じ込めることでしか
満たされなかった画家なのだ。
いわゆる“タムの王国”と呼ばれる幻影を追い求めた。
マザーコンプレックスを抱え、偽りの結婚をも余儀なくされながら
不安と幻想が入り混じる絵画を通して
デルヴォーは抑圧からの解放を夢見ていたのだ。

澁澤龍彦は「オナニストの想像力に媚びる絵」と書き、
瀧口修造は「絵画として実現された蜃気楼」と書いた。
また、アンドレ・ブルトンは
「心の広大な廊外地域を支配する常におんなじ女の帝国」と書いた。

ジュール・ベルヌの小説『地底旅行』の
主人公オットー・リーデンブロック教授を
ずらしたメガネをトレードマークに描きこみ
鉄道模型に没頭した10代の関心から汽車を、
あるいはスピッツナー博物館で観て以来
強烈に爪痕を残した人体模型がそのまま骸骨として
繰り返し登場することになる。
デルヴォーは幼少の頃からの記憶、トラウマ、コンプレックス
そうしたものを絵画の中に持ち込んできた画家だった。

そんななかで宿命の女タムとの運命の再会が
デルヴォーを呪縛から救いだすことになる。
御年五十路を超えて偽りを清算し、
ようやく思いを遂げるデルヴォー。
私の絵の中で描かれてきた女性たちに
ようやく命が通い始める瞬間がやって来たのである。

デルヴォーは失われた時間を女神でありミューズである
タムに注ぎ込み、死ぬまでの間愛し続ける。
が、最愛のタムが亡くなると筆を置いてしまう。
5年後、デルヴォーもあとを追う。
かくしてマグリットよりもはるか長生きをした画家による
デルヴォー劇場に幕が降ろされるである。

甘く切ないロマンにうっとりしてしまうのはこのためだったのか。
そんなデルヴォーの絵画に直接的な言葉は
どうにも似つかわしくなどない。
ここはポール・エリュアールの詩を掲載しておこう。

流謫ーポール・デルヴォーに

宝石や野の宮殿のあいだ
空も狭しと
身じろぎもせぬ大きな女たち
不屈の夏の日々

これら女たちの行く末に涙する
冥界を支配し地下で夢みる

うつろにも不毛にもあらぬ女たち
けれど大胆さに欠ける
女たちの乳房はおのれの鏡を浸す
期待の森の空所の肉眼を

物静かな女たち似ていることが美しさ増す

破壊的な花の匂いから遠く
炸裂する実のかたちから遠く
役立つ身ごなしから遠く内気なひとたち

すべてを運命に委ねて身みずからのほかは知るよしもない

『ポール・デルヴォー 骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書 3(増補新版のための解説より)』巖谷國士訳

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です