ルネ・マグリットという画家

「イメージの裏切り」ルネ・マグリット
「イメージの裏切り」 ルネ・マグリット

これはブログではない

これはブログではない、
つまりは目の前にあるモニターに表示された、ただの画面だ、
などと唐突に書いてみる。
そう言ってしまったからと言って
何かが急に意味を帯びてくるものでもない。
単なる言葉の戯れであり、悪ふざけにすぎない。

だが、「異なった環境に置く」という意味で解釈される
フランス語の“デペイズマン”というコンセプトを多用し、
ポップアートから現代のデザインに至るまで
クリエイティビティに対する計り知れない影響をもたらしてきた
ルネ・マグリットの絵には永遠に解けない謎との戯れによって
なお一層想像力を掻き立てられてしまうのだ。

そんなマグリットの絵を眺めていると
無性に言葉が書き連ねたくてしょうがなくなってくる。
目の前の不条理な世界とその世界観を描き続けた
マグリット自身への興味。
何か、言葉を発して、その思いを
ああでもないこうでもないと
誰彼なく、徹底的に議論したくなってくるのだ。
知的な遊戯であると同時に、不毛なおしゃべりの始まりだ。

それこそはマグリットの思うツボなのだろうか?
山高帽をかぶり、フロックコートをまとい
生計を立てるために商業デザインをも手がけ、
敬虔なカトリック教徒だった妻ジョルジェットとは、
14歳の初恋を実らせ、その後生涯添い遂げた。
そんなマグリットは、ブルトンを中心とした
パリに集ったシュルレアリストたちとの交流をもったものの、
生涯の大半を出生の地ブリュッセルで過ごし、
愛や運動に奔放に生きた他のメンバーとは違って、
「平凡な小市民」風の印象を与えるような暮らしぶりで
明らかに温度差を感じさせながらも
ひたすらあのような不条理なる絵を描き続けた。

ここ目の前に、一本のパイプがあるとする。
「これはパイプではない」と言われると
どういうことだ?と思うわけだが
これはパイプの絵(イメージ)であって、
タバコを蒸すあのパイプではない、ということになる。
これが「イメージの裏切り」と題された
文字通りマグリット流のロジックである。

ビートルズのアップルレコードは、
室内を埋め尽くす巨大なリンゴを描いた「盗聴の部屋I」に着想を得たとされている。
そもそも、果実のリンゴがあんなに大きいわけはないし
仮にリンゴの造形をした何かだとしても
部屋中を埋め尽くす光景に出くわすはずもない。
物理的に不可能な話を具現化してしまうところに
マグリットのマグリットたる所以がある。

布をかぶり接吻を交わす男女「恋人たち」などはまだしも
靴の先につま先の身体性が覗く「赤いモデル」となると
たちまち理解の範疇を超えてしまう。
木の中に月、ではなく、まるで七夕の笹のように
生い茂る葉の表面に三日月のかかった「手前にかかる月」、
あるいは馬に乗った女そのものが
木々によって分断される「白紙委任状」では、
見えるものと見えないものとが共存して
一つのだまし絵のようなあからさまな表現がなされている。

また、マグリットのもっとも知られた一枚で
昼と夜が一枚の絵の中に共存する「光の帝国」には
全く異なる二つの時空が目の前に並べられる。
人はそれがありえない事態だと知りながら
あたかも、一つの現象のように錯覚して
絵の前にしばし佇んでしまうかもしれない。
マグリットはそれら形而上学的な世界を
日常的空間に繰り返し描いた画家である。

厄介なのは、そのイメージに対し、
全く予期せぬタイトルがつけられて
いよいよ我々の理解は言葉では説明がつかず
無防備にさらされてしまい、身動きが取れなくなってゆくことである。
まさにマグリットが繰り返し描いた石化風景に
身を以て埋没してしまうのである。
マグリットはそうしたものの総体をポエジーと呼ぶ。
なんと便利な用語だろうか。
されど、これほど端的なものものなく、
まさにイメージの詩学が展開されるのだ。

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