ヒエロニムス・ボスに馳せて

快楽の園
快楽の園 1490-1500

異端の中のボス、こんな画家がいたんです

それにしても、とてつもない想像力であることよ。
中世における、もっとも悪魔的で異端である画家でありながら、
今日ではもっとも未来的でさえあったという、
この愉快犯による知的好奇心に溢れた絵画を前にすると
いかなる知能さえ脱帽するしかないと思えてくる。
ルネサンス期のネーデルラント(現オランダ)の画家、
ヒエロニムス・ボスの三連祭壇画『快楽の園』の、
この魅力的なまでにちりばめられている数々のアイコンと、
永遠に解けぬ謎を前にしては、
いかんともしがたいめまいでクラクラしてしまう。
まさに禁断の快楽が横たわっている絵画なのだ。

それぞれ『地上の楽園』〜『快楽の園』〜『地獄』
計3枚のパネルに分割された作品『快楽の園』は
高さは2m20cm、横幅は4m弱、
両翼を閉じた外面に描かれているのは天地創造時の地球らしい。
そこでは、まだ人の姿は見当たらないが
一度扉を開くと、網膜に快楽が洪水のように押し寄せてくるのである。
この想像力に満ちた世界が、果たして天国か地獄か、と言った言説はさておき、
不思議な生き物や植物、ボスの創造物で埋め尽くされた幻想の世界は
細かく細部を注視すればするほどに喚起力に富んでいることがわかってくる。

まず、左翼パネル『地上の楽園』は、その名のとおり、
イエスキリストがアダムとイブを娶せるシーンが描かれる。
その周辺には、闊歩する動物たち、
中にはユニコーンやキリン、象までが
野放図に描かれ、禁断の果実の樹には蛇が絡んでさえいる。
神話の時代のエデンの園、そのものといっていい光景があらわれる。
そしてメイン、中央の明るく色鮮やかな『快楽の園』では、
まさに裸の男女の群像が、これでもかとまでに
自由を謳歌する人間たちが
鳥や魚、獣たち、そして奇妙な植物たちのはざまで
あたかも祝祭のごとき賑やかでごった返す。
まさに、元祖ヒッピーの原風景、にさえ思えてくる。

そして、最後は『地獄』と称された絵によって
象徴的な悪魔的描写が顕著に飛び込んで来る。
とにかくグロテスクだが、反面どこか愛嬌があったりするのもボスの絵の特徴だ。
矢で射抜かれた両耳に挟まれたナイフ、通称“戦車”が
次々に人間を切り裂いてゆく。
木の幹によって支えられた卵の殻のような空間に
その中が居酒屋になった胴を持つ通称“根幹人間”。
顔らしきものがはっきり描かれているのだが、
これはボスの自画像ともいわれている。
その頭部には、臓器のような楽器を囲んで
悪魔たちによる宴が催されているようにみえる。
下部に目をおとせば、鍋を被った鳥の化身のような堕天使が
人間をまるごと飲み込んで
奇妙にも、そのままの形で排泄しているのがなんとも面白い。
その前方では、音楽地獄とよばれる、
楽器、つまりは音楽によって人間たちが次々に裁かれていくのだ。
なんとも不思議な光景である。
そうした登場人物たち、めいめいが繰り広げるダークな狂想曲。
まさに、ボス流の天国と地獄が展開されているが、
解釈のほどは難しい。答えがないのである。
時に笑いを誘い、苦笑をしいり、恐怖に引きずり込む。
これが今から600年以上も前の芸術家の創造力なのだ。

なんと楽しげなのだろうか。
なんと妖しく、蠱惑的なのだろうか?
一枚の絵画の中にある情報量のスゴさに、今更ながら驚いている。
まずは、そんな問題作を巡るドキュメンタリー映画、
『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』を観たときの感想を続けよう。
関係者たちの話を聞きながら、
『快楽の園』がいかに魅力的絵画であり
研究者や表現者たちが、それぞれの視点から
おのおのの思いを語ってゆくのではあるが、
悲しい哉、何百年という歳月にわたって、
いかに人々を魅了してきたか、という事実にしかたどり着けず、
誰一人論破することができないというジレンマを、
ただただ見せられるだけの時間を
映画館の闇のなかで過ごしただけのことである。
が、その意味では、模範的なドキュメンタリー映画というべきか。

どれが正しいのか、どの観点が的を射ているのか、
そんなことをそう易々と許すような代物ではないのはよくわかる。
蠱惑的な創造物たち、
そして甘美かつ悪夢のような光景、
神なのか、悪魔なのか、それとも賢者なのか、
そうした無数の事件、出来事が色鮮やかに、
そして細密に描き込まれた一枚の絵の世界に、
鑑賞するものが知らず知らずに潜入し、
時間が経つのも忘れ体験してしまう夢のような時間に、
人はどうしても言葉を発して、
その異体験を誰彼無く語らずにいられない。

いずれにせよ、謎の解明に挑むあらゆる知性を翻弄する、
ボスのいたずらな眼差しに返す言葉は、
“凄い”としか言いようがない。
そこには清々しいまでの諦観しかない。

いくら文明が進化しようが、
この世に人間不在の世界など考えられはしない。
無人島や惑星をいくら想起したところで何になるのか、
ボスの想像力の前に対抗できる知性は、
この先どんな先進的な技術を持ってしても、
太刀打ちできるものなど現れることなどないだろう。
所詮、そんなものは無意味だからだ。

今この現代と、ボスのいた頃の中世とを、
文明の点で比較してもどうしようもないことだが、
少なくとも、ボスの想像力は、
現代をも凌駕する絶対的なもののように見える。
もしも仮にボスがタイムマシンか何で、
この煩雑な現代に現れたら、どうだろうか?
ふと、そんなことを思ってみた。
今なら、さらにその想像力、創造性を遺憾なく発揮し、
とてつもないビジョンを構築しえたのだろうか。
残念ながら、自分には逆に、
当惑したひとりの人間ボスしか見出せないような気がしてしまう。
いわば、陸に上がった魚のように、
ボスはこの科学万能の目覚ましい文明社会では、
あまりの情報の無限さ、
人間体系の煩雑さのなかに、
絵などに対する興味以前に、
自分を見失ってしまうのではなかろうか?

中世の社会は、少なくとも人工知能に脅かされる心配はない。
むしろ、愚かしい人間たちのエゴや本質だけが、
夜空の星々のように煌めいていたはずだ。
その中で、ボスは人間の本質を絵の中に表現したのであろう。
動物とも人ともいえぬ、
おぞましくも、キッチュな創造物たち、
アダムやイブと言った神の造物とその主が一体になった世界は、
紛れもなく、ボスが見抜いていた人間社会そのものだったはずだ。

まさに人間の縮図。
そして神への挑戦。
こうした中世の錬金術師的な絵画が
同時代の人々に受け入れられていたとは到底思えない。
やがて、ブリューゲルやアンチンボルドを刺激し、
あのエルンストが、あのダリが、ミロが狂喜乱舞して受け止め、
二十世紀のシュルレアリストたちにも確実に心躍らせはしたが
倫理や常識に忠実な人間には、悪魔の仕業であったに違いないのだ。
それは現代に至っても変わる事は無い。

この狂気の世界が、未来永劫、
人々に投げかけてゆく問いのようなものがあるとしたら、
この世で一番恐ろしいもの、
人間以外に悪魔的なものが他にあるだろうか?
ということではないのだろうか…
そして、それに抗える唯一の抵抗手段は、
想像力でしかないのだと、遠い中世から、
ボスのこう笑が聞こえてくるではないか。

『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』 ホセ・ル イス・ロペス=リナレス


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