ジョゼフ・コーネルめぐって

夢みる箱男

まず、箱=収納するものという意識から捉え直してみよう。
あなたはなにをどう思うだろうか? 

たとえば、安部公房の小説「箱男」での「箱」という空間を考えてみる。
市民生活の帰属を離れんとする主人公「ぼく」が、
見るものと見られるものの関係をめぐって、
外界に対峙するための避難場のメタファーとして
ダンボール箱を選択し、「箱男」を自称することで、
現実と接点をみいだしている。
それは決して非現実世界ではなく、
むしろ現実というものが、網膜を通して写し出されることになる世界、
つまりは、今日の現実世界にもたぶんに反映されているところの、
むしろなんでもない光景のひとつだということでは、
まことに無気味な武装ではあるが、
いわば「箱」というのは、
おそらくわれわれの“胸の内のありようの一形態”にすぎないのだ。

夢のなかでは“箱男”も箱を脱いでしまっている。箱暮しを始める前の夢をみているのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢みているのだろうか 

安部公房「箱男」より

が、しかし、もうひとりの箱男の場合、
まったくその逆で、箱の中に夢の世界を持ち込んだ。
そう、ジョセフ・コ-ネルの「箱」たちは、
現実に映り込んでいないものを見せるイマージュの劇場を掲げ、
それは称賛すべく、
この世のどこにも存在しえない情景を作り上げてしまう。

こうして、無垢なオブジェたちの抽出をともなって
夢のなかで物語を観るという行為、
すなわち網膜を離れた領域で、
自在に駆け巡るための装置が、いわばアッセンブラージュだ。

アッセンブラージュとは、通常、コラージュの立体版で、
まずは、ピカソなどが試みたパピエコレ、
あるいはキュビズム表現にまで遡る。
ダダイストで、廃品などを素材にメルツ絵画を展開した
クルト・シュヴィッタースの作品などが知られている。
ジャンク品であれ、自然物であれ、
既成の素材を元に、あくまでも無意識の世界、
あるいは内面の宇宙という二つの次元を宿したものを再構築する、
ということでは、夢のメカニズムにどこか似ている。
ここではその夢空間が、箱という装置のなかに展開されるのである。

これら「箱」という空間には、
網膜をめぐる神秘の階層が存在することがおわかりいただけよう。
それは今日われわれが見つめているネットブラウザ-のように、
単なる仮想空間の中における世界漂流を
可能にする「ツール」にすぎない。

が、そこに集められたオブジェとオブジェとの邂逅は、
今日のいかなる文明の利器さえも及ばぬ、一大ロマンを生成し、
微笑ましくも圧倒的な詩的喚起力を発揮する。
コ-ネルの作品には影響こそあるものの、
いわば感動的なまでに心に刺さるのは、
シュルレアリストたちがしばし捉えた
悪夢のような世界観とは次元を異にしている点だ。
というのも彼は、作品そのものを詩の懐胎によって、
純粋培養しつづけた希有なアーティストに他ならないからであり、
戦争への嫌悪やメタファーが見えかくれしようとも、
真のこどもたちなら、だれもが訪れてしまうように、
彼は親しみやすいもの、はかなくも可愛い日常のオブジェたちを
好んで蒐集したことに終始する。
これらなんでもない漂流物、風化物がポエジーの息吹で、
かようなまでに愛らしきものへの変貌を遂げていることへの驚きは、
けっして時間の概念のみに侵食されることはない。

そうして、コ-ネルそのひとの真実に目をむけはじめれば、
おびただしい童心のイマージュに胸踊ると同時に、
たえず無垢なる世界観を渇望し、
自分よりも幼いものたちへの慈しみや愛情を、
生涯持ちつづけた人物であったことを
あらためて知ることになるだろう。

脳性麻痺の弟ロバートへの献身、
あるいは自らの作品を売り飛ばそうとし逮捕され、
その後無惨に殺害されてしまうことになる少女
ジョイ・ハンターの運命を、
殉教者のごとく慈しみをもって憐れんだコ-ネルは、
コラージュと映画まで捧げているほどである。

こうしてメリエスの子供たる映画制作者は、
職人気質のテキスタイルデザイナー、
クリスチャンサイエンスの信者、ロマンティックな独身者、
博学にして熱狂的蒐集家、はずかしがり屋の理想主義者、
といった素の“箱男”をうかびあがらせる。
こちらアメリカ生まれの「箱男」が夢見ていたもの、
すなわち天空の日常、シャボン玉ムービー、
バレリーナとのロマンティックな恋物語、
鳥たちとのおしゃべり、夢先案内ホテル。
時空の旅のツーリストたちが時空をこえてやってきては、
すでに自らの心にやどっている忘れものを呼び戻すことに夢中で、
いわばコ-ネルの箱ホテルが空室になることはない。

コ-ネルの作品の前に立つと、あなたは否応なく「美しい」ということばを使ってしまう。それ以上にあなたは何をお望みか?

1953年ウォ-カー・アート・センターで催された
コ-ネル展の序文に記した画家のロバート・マザウエルには、
あえて「lovely」と「Bravo」ということばをつけくわえてほしいと思うし、
また92年我が国で初めての大々的に行われた回顧展において、

理屈や道理を捨て去れば、それらは20世紀で最も貴重4つの宝を、まるで手で触れるように実感させてくれる。すなわち空間、静寂、調和、平和の四つを。

監修者サンドラ・レナード・スター女史

と書いた監修者サンドラ・レナード・スター女史のことばには
「永遠」を、そして「まるで天からやって来た職人の指紋の魔法か」と書いた
詩人瀧口修造には微笑まずにいられない。  

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