池田満寿夫という画家

タエコの朝食 池田満寿夫
タエコの朝食 池田満寿夫

エロスの伝道師満寿夫さんロスを偲んで

かつて、さほど敬意など払ってもみなかった人を
あらたまって評価することに、
少々心苦しい思いがあるにはあるのだが
正直なところ、自分の見る目の未熟さはさておき
なかなかその正体、その本質を理解するに至るには
それなりの成熟した目を要するタイプも確かにいるのだと思う。

そんなひとりが池田満寿夫ではないかと思っている。
この世を去ってすでに二十年の歳月が流れている。
率直にいえば、マルチタレントの部類であったが、
今、振り返ると、池田満寿夫という人は
もっと評価されてしかるべき才能を持ち合わせていた人だと思う。
もちろん、そう書くほどに池田満寿夫が無名で
世間に認知されていなかったわけではけして無い。
たんにわが認識と世間の視線が本線からは隔たっていただけである。
ことに版画家としての才は早くから国際的に認められており、
ヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞しているほどだ。

とはいえ、池田満寿夫の不幸、およびその評価の低さは
そのあまりに自由すぎるスタンスにある気がしている。
何しろ多彩だ。
絵はもちろん、美術批評家、詩人、エッセイスト、小説家、
映画監督、陶芸家、書道家etc。
どうやら、この国では活動が多岐にわたっていることは
軽佻浮薄として、なかなかまともに受け止められないという風潮が
どこか昔からあったような気がしている。

あれはちょうど中学生のときだったと思う。
当時『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞し
文壇を賑わしていたのを思い出す。
同時に文化人タレントとしてテレビにも頻繁に顔を出し、
確かに何をしている人なのか、よくわからないまま、
自由人として、心のどこかにその存在が焼き付けられていた。

にも関わらず、当時芸術にまだ開眼していない自分には
どちらかというと、その話題性
作品の官能性とやらにばかり気を取られていた。
当時はやたらちょい“エロいおっさん”としての空気を
その飄々としたあのもじゃもじゃあたまの風体の中にも
感じ取っていたものだった。
そのうち、こちらも追いかけるように芸術というものに目覚め、
自分でもそれなりの創作活動に没頭するようになったが
それでも池田満寿夫という存在をさほど気にはかけてこなかった。

それがある時からにわかに興味が芽生え始めた。
南佳孝の『サウス・オブ・ボーダー』のジャケットに
池田満寿夫の版画作品が使用されていたことに端をはっしている。
俄然、自分のアンテナ、食指が動き始めた。
その素晴らしい線、描写がどこか日本人離れした感性を見る思いがした。
色彩は騙せるが、線というものは
決して騙すことができないと考えていたからだ。

池田満寿夫のドライポイントの線をみたときに
この人は日本でも珍しい本物の線を描ける人だと直感したものである。
そのときにはマルチなどという言葉を超えて
表現者としての全貌に興味津々となっていた。

池田満寿夫という人は実に奔放というか
無邪気というか、様々なアーティストからの影響を素直に受け、
どこまでも確信犯的にそのスタイルを取り込んできた。
もっとも影響をうけたのはピカソであろう。
それは初期の版画作品にも如実に表れているが
そのほか、ヴォルスやミロ、デクーニングやマチス
カンディンスキーにウォーホールといった
豊かな線や色彩の魔術師たちの影響を次々にわがものにしながら
ひたすら貪欲に世界を開拓していった人である。

その上に、さらなる好奇心のまなざしは突き進む。
それが書であり、般若心経をモティーフにした陶芸作品である。
池田満寿夫がどういう経緯で西洋美術史一辺倒の洋画家から
前衛陶芸家への道へ歩みを進めたのかまではよく知らない。

平安時代の仏像彫刻に関心をいだいていたこと、
考古学に熱中した十代をすごしたことに
その源泉を求めることは可能だろう。
しかし、何より直感的に好奇心の赴くままに芸術に向き合ってきた
池田満寿夫が手の感覚だけをよりどころに
彫刻に没頭した経緯を考えてみたくなる。
要するに、池田満寿夫を動かしてきたモティベーションは
満寿夫自身多大な影響を受けたはずの詩人瀧口修造にも通じる
純粋直観のそれであったのである。

そんな自由な表現者の女性遍歴もまた、
その純粋な制作活動に匹敵するほどめまぐるしいものだったが
四番目のパートナーであったバイオリスト佐藤陽子とのおしどりぶりは
つとに有名だった。
いみじくも、まるで棟方志功の版画にあるような
ふくよかで官能的な女性を誇った
佐藤陽子という人をみていると、
どこか観音さまのようにもみえてきて、なるほど、
晩年の18年もの歳月をともに仲睦まじく歩んだ過程のなかに
どこか仏教的な祈りのようなものにも通底する思いを感じるのだ。

そんな女性性とともに西洋的な二元論や観念ではおよばない
美の世界に救いを求めたような気がしている。
日本の縄文土器や弥生土器、といった根源的な美への回帰、
そして心のよりどころを尾形光琳といった東洋の美の影響を受け
版画作品よりも多産な作品を産んでいったことは
満寿夫の芸術を理解する重要なキーワードであるに違いあるまい。
そんな満寿夫は、生前、再び絵画表現への回帰を夢見ていたという。
残念ながら、そんな思いが叶うことはなかった。

しばし、池田満寿夫は官能のアーティストと呼ばれ
実際にそのような作品を多数残してはいる。
しかし、このアーティストが面白いのは、
おしなべてモデルは使わずにファッション雑誌やポルノ雑誌をもとに
想像の世界の感光を試みるタイプであったらしい。
よって、元来の絵画にはない、
詩的インスピレーションに従ったみずみずしい生の世界が
立ちあらわれたのに違いないのだ。

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