初山滋のこと

『たなばた』君島久子 絵:初山滋 1963
『たなばた』君島久子 絵:初山滋 1963

憂いか愛いかは心が決める

雨が降ると、なんだか憂鬱な顔をする人が増えるのはなぜだろう?

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップランランラン♪

そんな歌を口ずさんだ頃もあったんだっけか?
そう思い返してみる人なら
雨の日にだって、なんらかの楽しみを見いだせるだろう。

人は童心に帰りたいと言う。
そしてそのようなことをふと心の片隅で思う。
童心が誰にでもあるものなのかどうかはわからない。
まして、子供のような大人がいたり
大人のような子供がいたり、
所詮童心というものが幻想で
あるいは普遍的なノスタルジックな病なのかも知れない、というのに。

が、そんなに難しく考えるまでもないことだ。
素直になること。
そして目の前にある可愛いもの、楽しげなものに
素直に反応すれば良いことだ。
何より微笑むことを恐れないことだ。

そんな意味では初山滋の絵には
その童心とやらがにわかにざわざわさせられるのである。
子供の頃、学校の教科書でなんども出会っていた気がする。
だからなのか、親しみがわくのも無理はない。
今、忘れられた世界である。
今だから、思い出したい世界である。
それなのに、その当時でさえ、全く見向きもしなかったように思う。
子供って勝手だな。
それが長い年月をへて、ふと見ると
なんだか、とても懐かしくて、
あの頃の自分を他人事のようにスルーして
いいな、可愛いなと呟いてしまう。
大人って勝手なものだ。

芸術的な絵もいいだろう。
おしゃれなデザインもいいだろう。
小難しい絵も、ハッとする絵も、なんだかわからない絵も
人間が描いたものには変わりがない。
絵には言葉で説明できない情緒というものがある。
だが、そうはいっても初山滋の絵は馬鹿にはできない。
この宇宙は、その汚れなき透明な眼差しには
抗えない強い磁力がある。なぜなら、そこに描かれたイメージに
見透かされた心の穴を埋めてくれる何かがあるからだ。

童話にしろ、児童書にしろ、絵本にしろ
子供のためにだけにあるものだと本気で思っている人が
果たしているんだろうか?
それが事実ならとても貧しい感性だ。
少なくとも、僕は幾つになっても童話や児童書や絵本が気になってしまう。
自分が素直になって心を許すだけでいいのだ。
可愛い絵や楽しい話が心を満たしてくれるのだ。
時にはハッとさせられることもある。

初山滋の『山のもの山のもの』という絵本の冒頭にある詩が
心を離さないのはどうしたものか。

いぜん には
けもの が にんげん に ばけたり、
にんげん が けもの に ばけたり
した おもしろい おはなし も
あったやうだ。
しかし、もう ばけたり ばかし
たりは やめて
にんげん は にんげん
けものは けもの そのまま で、
ほんとう の よい こころ と
こころ で いき て いく
ことを かんがへ て みよう。

そうかと思えば、なんでも食べてしまうブタのトンちゃんが
最後にはトンカツ屋に売られ
食べられるブタとなってしまうという
見事な落ちに落ち着く名作『たべるトンちゃん』の
ユーモアセンス。

たべる とんちゃんは トンカツや に
かはれて ゆき たべられる とんちゃん
に なりました おしまひ ビイ

そんな素敵な話をいろいろ聴かせてくれる
初山滋という人は、一体どんな人だったんだろうか?

明治大正昭和をまたにかけて生きた人、
いわゆるモダニストと呼ばれ
骨董や浮世絵、狩猟を好み、
何より無類の酒好きだった初山は
飲み屋へ行って、勘定の際は財布を預け、
自ら一切金に手をかけないようなそんな人だったという。
まさに粋な江戸っ子そのものであった。
飾ることなく、奢ることなく、
お洒落で茶目っ気があり、おまけに自由奔放で、
戦争を憎みはしたが口では面と向かって叫べず、
ひたすら絵を通して童心を表現した人。
それでいて子煩悩だったりするそんな初山滋のことを
自分はずっと「ういやましげる」だとばかり思っていた。
「はつやま」だと知ってずいぶんがっかりしたものである。
なぜなら「うい」だったなら
「憂い」とも読めるし「愛い」とも響く。
要するに、みるものの気分に合わせ響く名前のような気がして
なんと素敵なことだろう、なんてことを考えていたからである。
そう、自分にとっての初山滋は「愛い」やましげる、そのものだったのだ。

Peachy Peachy:Rosemary Clooney

この間細野さんのラジオ『デイジーホリデー』を聴いていたら、
こんな曲が流れていた・・・
まさに、初山滋の世界だと思った。

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