増村保造『「女の小箱」より、夫が見た』をめぐって

『女の小箱』より 夫が見た 1964 増村保造
『女の小箱』より 夫が見た 1964 増村保造

おぼこ娘にゃわかるまい、魔性の女のゴーインなマイウエイ

社会性を重んじ、その中で個を省みない男と、
本能や直感にのみ従って個を生きる女。
そんな二つの生き物がこの世でうまく共存できるものだろうか?
一見、世間を欺いてうまくやっていけるとしても、
どこかで、無理をし、妥協して、忖度するだけではないか。
人間全体で見ると、そういうことになるのかもしれない。
男と女は基本的に、別の生き物である。
初めからそう思えば、少しは気が楽になるってものだ。
「男と女の間には、深くて暗い河がある」
思わず口ずさまずにはいられない。
野坂昭如が歌った「黒の舟唄」の一節である。

何を改まってそんなことを、というかもしれないが、
この真理を実際頭で理解していても
ついつい、日常と状況に流され、
人類は度々すれ違いを重ねてきた。
うまくやれない男の身としては、
この男女別種論こそに真理を見出して安心するのである。
その方が、いろんなことがすんなり解決する。
少なくとも、整理がつくのだ。

しかるに、もう少し早く、あの増村保造の映画に出会い、
ヒロイン若尾文子との壮絶な映画体験を経験していたなら、
思わずそう呟かずにはいられない。
もう少し楽に生きてこられたように思ってしまう。
女というものに、振り回されずに生きてこられたかもしれない・・・
というのも、若い頃にはそんな風には思えなかったし、
男と女はどうして理解し合えないのか、とそればかり
真剣に頭を悩ましながら日々を過ごしたてきたからだ。

果たして、女心とは何か?
女というやつは男の消耗品などではなく、
むしろ、今やその逆であることでこの世は成り立っている。
そのような逆張りの仮説すらたてられたかもしれないのだ。
そう、増村の映画はそんな男と女にまつわるわだかまりを、
綺麗さっぱり、ある種強引に納得させてしまう凄みがある。

増村保造は、東大出のインテリで
溝口組で助監督として揉まれ
イタリア留学経験もある映画人である。
それまでの日本映画にはない、新しい息吹を吹き込んだ作家ということで、
どこか、日本の風土とはマッチしない、
強烈な女性像をはっきりと打ち出し、描いてきた。
男はまるで、飾りだ。
あたかもメスに食いちぎられるオスカマキリよろしく、
男こそが消耗品であるといわんばかり。
その点を、若尾文子という女優は十分承知の上
期待以上の演技で応えきたのが
増村作品における若尾文子主演作品であり
その数は約二十にものぼる。

そのことは先の「特集」の中でおおいに取り上げた。
二人の共犯がこの映画史に燦然と傑作を残してきたのだ。
今度はその作品を個別に取り上げて検証してみよう。
今回はまず『「女の小箱」より、夫が見た』を取り上げてみたい。
その前に、この作品のタイトルはいただけない。
黒岩重吾による『女の小箱 』が原作だが、
そのままでよかった気がする。
夫が見たなんていうと、なんだか内容と違って
夫に主観があるように聞こえるのだ。

実際は、「夫は見せつけられた」のであり
さらにいえば「妻は見た(みてしまった)」という方が正しい。
妻は、ひたすら夫の偽りの愛を凝視し、
明確な意思を持ってそれを却下したのである。
その上で、夫以外の愛を、自らの意思で求め
ついに勝ち取ったのである。
そこに、貞操観念やら、良妻賢母などという概念は皆無である。
よって、夫側に選択権などないのであり、
妻は、その立場やしがらみを捨て、
自らの生きる愛へと踏み出した、文字通り
自由で強い女性像としての意思こそが主題なのだ。

夫は仕事というもの、つまりは家庭よりも外部に価値を見出すが
妻は自分の中にある意思に価値を置き行動する。
よって、関心は絶えず「私と仕事、どっちが大事なの?」ということであり、
その上で、夫の敵でもある男を選択したのは
立場や環境がどうのこうの、ではないのである。
その愛を捧げることだけが彼女の求める全てであったからなのだ。
選んだ男からその愛の証拠として手渡された指輪を前に
「女ってこのパールみたい。箱から出なきゃダメね」
しみじみそう漏らす女の本音がそこにある。

この作品は増村VS若尾ラインの中でも
最もその傾向が顕著な内容が描き出されている。
愛に生きる女が、ついには男にまで強要してまでも
意思を貫き、周りをも顧みない激しい生き様を晒す作品である。
テーマは終始ブレることはないのだ。

それにしても、田宮二郎演じる石塚もまた
『白い巨塔』での財前五郎を思い起こさせるように
強気で、怖いもの知らずのふてぶてしい男を演じている。
単なる女の消費の前に甘んじているわけではないのだ。
この点は、川崎敬三演じる夫川代とはまるで正反対であり
その性質と一線を画すのは
那美子同様、行動の推進力が
全て自らの意思に基づいているという点だ。

この点において、二人になんの障害もない。
「夢と私と、どちらをとるの?」という那美子の究極の問いかけの前に、
怯むことなく夢を捨て愛を取る、と言い切るのだ。
そうなれば、女にとってなんの不足もないということになる。
そして自分を選ぶと決めてくれたその偽らざる意思に、彼女は愛を確信する。
それまでに至るには女心は、多少揺れはするが、
決して、従来の日本女性に見られるようなグズグズ感からではない。
その女心を正面から、直球一本で
グイグイと攻めいる男のスタイルを、しっかり吟味しているのだ。
が、自分がその相手として想像するとすればどうだろうか?
いったいどれほどの日本男児がこの直球を受け止めうるだろうか?
というのは、知る由もない。

それにしても、やはり増村VS若尾のバトルは凄まじい。
しかし、一点の曇りもない男と女の逢瀬に感動すら覚えてしまう。
本当に、こんな女がいたらいたで厄介なのはいうまでもない。
男なら皆そう思うはずだ。
が悲しい哉、そういう女に出会ってみたい、
そう思うのもまたぞろ、男のサガなのだ。

ちなみに、オープニングから
若尾文子の妖艶な裸体が晒されいるように撮られているが、
露わな裸体は全て替え玉である。
若尾文子にとっては、その一線だけは
どうやら超えたくはない、暗黙の協定だったのだろう。
終始、一貫して、若尾文子演じる人妻の凛とした姿勢が
その部分に滲み出している気がしたものだ。
ある意味、バカな男たちはこのエロスの駆け引きの前に
あっさりと騙されるわけだ。

この若尾ー田宮ライン以外にも
岸田今日子という存在も、また魔性の存在である。
自ら、パートナーのために、金の工面をし
身体を売ることも厭わない。
全ては男を所有せんがための、行為である。
それを裏切る男を許すことなどできるはずもない。
ここにも、究極の女の魔性がある。
そして、その魔性同士が相容れず、本能をぶつけ合う。
その意味では、田宮とは真反対の川崎敬三の小狡さは
男としての社会性を餌に、
女の欲望の凄まじさを際立たせるための単なる導線なのだ。

スパイとして間に立つ江波杏子もまた。この毒牙の前に、
本能をさらした結果に殺されてしまうわけだが、
決して、何かに隷属し犠牲になったわけではないのだ。
女としての戦いの末、力学の強度によって葬られた結果に過ぎないのだ。
とにかく増村の映画に、女が男にかしずくなんてことがありえるだろうか?

さて、最後に、無理くりにでも結びつけようと
エロティシズムという名の置き場を考えているのだが、
この映画に、果たしてエロティシズムは存在するか?
という根源的、かつ俗なるテーマをかかげてみよう。
だが、男として、動物的本能は、むしろ、抑制され去勢されるばかりである。
たしかに、死に至る高揚感はある。
若尾文子の艶かしさに、クラクラするだろう。
しかし、それは男のバカな妄想に過ぎず、
この命がけで、女とそいとげる覚悟を強いられれば
引くに引けなくなった男にとっては、
エロティシズムなど、もはや官能でもなければ通俗的エロとしても態をなさない。
まさに、男の威信をかけたサバイバルゲームなのだ。
そうして、この魔性の前に、あれほどまでに情熱を燃やした
田宮二郎演じる石塚の亡骸が
その戦いに勝った女のいけにえとして、ただ冷たく捧げられるだけである。

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