小津安二郎『お早よう』をめぐって

お早よう 1959 小津安二郎
お早よう 1959 小津安二郎

無用の用

その昔、硬化した足のかかとなんかを削ったりするために
軽石なんぞがつかわれていたのを覚えている。
そんな世代の人間である。
そもそも、軽石ってなんだ、といわれてもよくわからないが、
火山砕屑物、いうなれば火山が吐き出した固形物ということであり、
それが集まって岩石になるのだという。
のっけから、軽石の話なんぞをしているのは、これから語る映画
小津安二郎の『お早よう』への、文字通りの布石なのである。

昔から 「軽石の粉を飲むとおならが出る」なんて噂があり、
少しマイナーではあるが
上方落語の題目に『軽石屁』という噺のなかに出てくる。
桂九雀という、あの枝雀門下の弟子が
得意としているコント落語のひとつで、
伊勢神宮内宮へ参拝した喜六と清八の二人連れが
茶屋で一休みしたあと、ちょっと小狡い清八の方が
一足先に駕籠にのりこんで、ほなお先に、ってな調子で
置いてきぼりを食った喜六が
おまけに駕籠代と茶代まで払わされたことへの仕返しとして、
今度は近道して、清八がやってくる煮売屋で、
ある仕掛けをほどこして手ぐすね引いて待ちわびる。

つまり、酒の徳利に軽石を砕いたものを入れたものを、
清八が乗る駕籠屋に飲まして、前後ろからのおなら攻撃で
先の溜飲を下げようという算段の噺である。
なんとも上方落語っぽい発想のネタだが、
そもそも、軽石とおならの関係は、
これこそ、落語ならではの“屁理屈”というやつで、
火山のガスが詰まった石の粉が溶けてガスが出る、
ってなことで、なんの根拠もありゃしない、
いうなれば、ただのガセなのである。

とまあ、ちょっと長いまくら話を引っ張ってきたが、
ここから本題、まず『お早よう』の冒頭では、
いきなり、このシーンから始まるのだ。
もっとも、演者は子供たちである。
学校からの帰り道の土手で、子供達が
おでこを押すと、ブッだの、プーだの、
“おならマシーン”になった学童たちが得意げになるというシーンが
なんともおかしいのである。
小津流のギャグである。
このギャク、途中で「軽石飲んでるか?」というセリフからも、
あきらかに野田高梧と小津安二郎のコンビが
先の上方落語から着想を得ているのは間違いないだろう。
なんとも洒脱である。

そんなお茶目なこどもたちが引き起こす大人たちへのサイレントストライキ、
つまりは絶対に口をきかない、という反抗が
これまた面白い効果を生むのだが、そのきっかけは
テレビを買う、買わないの、といった他愛もない論争が発端である。

大人には大人の論理、子供には子供の理屈というものがあり、
そのすれ違いをユーモラスに描き出す小津のスタイルは、
トーキ以降も健在だが、それは主にサイレント時代に培われていた芸当だ。
『生まれてはみたけれど』を思い出せば、
この監督の根底にはそうしたユーモアとペーソスが
練り込まれているのがよくわかる。
こどもの場合、大人同士の大人のかけひき以上に、
ついつい核心をついてしまうものである。

テレビテレビと執拗に懇願し
「余計なことを喋るんじゃない 」と父親に叱責される子供たちは
「大人だって余計なこといってるじゃないか・・・」などといって悪態をつく。
この「余計なこと」というのが、案外人間の生活には不可欠で、
というのが、この『お早よう』の裏テーマになっているのである。
何気なく交わす挨拶がないことで、人間関係がぎくしゃくするのである。
この多摩川べりの新興住宅(都営住宅のたぐいか)においても
近所の噂話しは、主婦たちの井戸端会議では欠かせない。
そんな主婦の毒牙かかって、若い夫婦は耐えきれず
引っ越しまで余儀なくされてしまう。
そんな偏狭な社会において、この挨拶ひとつが関係性を大いに左右する。
殿山泰司扮する押し売りがガラガラと玄関口を開けてやってきて、
歯ブラシだの鉛筆だのゴム紐を売り込むシーンがあるのだが、
三好栄子の産婆さんに軽くあしらわれてスゴスゴ帰ってゆく。
しかし、それらはどれもが深刻なものではない。
小津安二郎という人はそれをユーモアによって、
大人のドラマへと書き換えてしまうからだ。

考えてみれば、当時、テレビというものが
国民の娯楽としては、大層なものだったという時代背景だったのである。
街頭テレビなどで、野球や相撲、プロレスなどの放送に
群衆がたむろしたというような話は、
自分も子供の頃、幾度となく親の口から聞いて知っている。
そんなのどかな時代においては、子供も大人も基本的には素朴である。
問題のレベルが複雑な現代とは比にならないようなものに思える。
が、それがものごとの本質でもあるがゆえに
映画として、時をへても心に響くのであろう。

子供は子供らしく、というようなことが
われわれには常套句のようにすり込まれているが
最近では子供らしさというものさえ曖昧で
それが複雑な社会を反映している。
そうした不毛な時代にこそ、ユーモアや素朴さ、
そして何気ない挨拶というようなものが
人の心に水を与えるのだ。

ごあいさつ:高田渡

高田渡のファーストアルバム『ごあいさつ』からのタイトル曲。とても短い俳句のような曲である。まさに映画『おはよう」のテーマをわずか30秒足らずで聞かせる、これまた名人芸というやつか。アルバムまるまるこの調子である。これぞ昭和の日常、庶民感覚満載の歌である。いやはや懐かしい。いやはや素晴らしい。

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