ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』をめぐって

ミツバチのささやき 1973 ヴィクトル・エリセ
ミツバチのささやき 1973 ヴィクトル・エリセ

この詩情、この奇跡、あなかしこあなかしこ

1973年製作スペイン映画『ミツバチのささやき』には
自分がこれまで見てきた映画の中でも特別な思いがある。
というのも、この映画を見てからというもの、
そのアナ・トレントその眼差しが
今だ心に住み着いて離れないからだ。
移動映画館で上映される『フランケンシュタイン』を見つめる、
あの大きく見開かれた眼が、今でも忘れられない。
だれもがこの少女に恋する磁力にあらがえない瞬間が
そこにはある、確実にあったのだと思う。

この映画をみたとき、
とっくに成人した眼差しを注いでいたであろう自分には
この映画でのアナという少女の心情が
どこかで成長を止めた、過去の自分自身に戻り重なるような、
そんな穢れなき懐かしい思いとして写っていたのだ。

少女は目の前に現れる事象を理解するには至らない。
わずかな差でしかない姉イサベルの経験値にさえ及ばない
幼いアナにとって、あらゆるものが日々神秘の連続である。
フランケンシュタインによって池に放り込まれた
画面の中の少女の結末(死)など理解できない。
そう、理解できるはずもない。
人間のエゴが無理やり生み出した、ある種犠牲者たる怪物が
人の心を超えたところに、無情の振る舞いを見せてしまう瞬間なのだから・・・。

隠れ家に潜む政治犯に無垢の愛情を注ぐアナ。
そこには畏怖の情が入り混じりながらも、
手探りで何かを一つ一つ発見してゆく、
不確かなものから確かなものにしてゆくための通過儀礼、
そんな思いが込められているのだ。

当時アナは5歳。
この少女がこの映画に抜擢された瞬間から
この映画の方向性は決定した意味を持ってしまった。
単に可愛らしい子役というイメージだけではなく、
まさにレイドバックした何かが住み着いて離れないのは
そうしたまさに、未開の目、
あるいは萌芽の瞬間が映り込んでいるからである。
まさに、アナはこの映画の精霊でもあったのだ。

それから数十年。
アナは成熟し、すっかり大人の女性になっている事だろう・・・
当たり前の話だが、いみじくも、
自分とアナが同級生だったというよしみで
他人事ではないような気もしていたわけだ。
それは我が成長に無理なく重ねあわせてしまえる
不思議な縁だったからかもしれない。

そんなことで、アナを通じて
このヴィクトル・エリセに触れたのだが、
それは実に幸福な映画体験の始まりだったといえる。
この監督は、実に寡黙かつ寡作な作家として知られているが、
70年代にこの『ミツバチのささやき』でデビューし、
80年代には『エル・スール』、
そして90年代には『マルメロの陽光』と、
いわば十年に一度という長いスパンながら
映画を細々と撮り続ける作家として、
何より、その映画言語において、
強固なまでの示唆に富んだその寡黙ぶりが、心に深く刻まれている。
自分が求める映画への対象を持った眼差しに、
無理なく溶け込んだ残像を時折こうして思い返すのだ。

とはいえ、そうしたスパンさえも超えて、
以後は全くその声が聞こえてはこないのは残念な限りだった。
2010年にはカンヌで映画祭の審査員に加わっていたようだが
肝心の自作についての声はどこからも聞こえてはこない。
長年に渡る、それは映画史における損失でもあるのだとも思う。
真相まではよくわからない。
それでも上記の三本だけでも、
この監督を神格化するには十分だろう。
映画に対する洞察、知性を兼ね備えた作家であることは
このどの作品からも疑いの余地のないところである。

ここでは、そうしたエリセの作家性を鑑みながら、
この傑作『ミツバチのささやき」に触れてみたい。
まずは、フランコ政権のスペイン内戦後における空気感を
ミツバチという社会生活を営む生物の生態と、
純粋で何も知らない子供の目を通して詩的に描かれており、
カスティーリャ地方の素朴ながら美しい風景と
ルイス・デ・パブロによる神秘的な音楽を伴って紡ぎあげられた珠玉の一編である。
黄色い光線に包まれた蜂の巣を想起させる家。
大手を振って政府を批判することの許されないこの時代。
監視と検閲の目を潜るには、事を抽象化しなければならなかったのだ。

いみじくも、当の検閲者たちの目には
この映画の本質が見えていなかったということらしい。
まるで、全てが詩のような、謎解きのような話に
なっているからだが、そこには静かなる哀しみや怒り、
そして小さな希望や純粋無垢な祈りが漂う。
学校の人体模型に目の部位を装着するアナの行為には
こうした当時の盲目的な政府体制への憤りが暗喩が潜んでいるのだ。
この映画の本質にはこうした政治的背景に対する
痛切な思いが込められている箇所が
ところどころに影のように潜んでいる。。
それは母親がかつての恋人に向け書く手紙のシーンや、
父親が森で子供達を前にしてキノコを踏みにじるその姿に、
スペイン市民のやるせなき思いが込められている。
とはいえ、エリセの資質は、その全てを
あからさまに提示したりするようなことはない。
あたかも、そうした資質に寄り添いながらも、
この映画に刻まれた痛みは、
フランケンシュタインの末路のように、深く、哀しいものである。

しかし、この映画的体験にはそうした負の歴史を
真正面から見せたりすることではない。
間違っても反戦映画でも思想映画でもない。
人間の奥底にある内なる神秘が、
無垢の少女の目を通して描き出されている点が素晴らしいのである。

メーテルリンクの名著からインスパイアされ、
ハチの巣をモティーフに描き出されたスペイン人の
うちなる郷愁が、この映画に祈りのように込められている。
アナはそんな虐げられた祖国の哀しみに向かって、
精霊の名の下に語りかかける。
「ソイアナ(わたしよ、アナよ)」と。
この余韻を噛み締めながら、長年に渡って
一向に色褪せることのないエリセ熱。
この『ミツバチのささやき』に対する思いを噛みしめる幸福を喜びたい。

この映画で使われる旋律に魅了され、
当時、スペインの現代音楽家である
ルイス・デ・パブロによる
この映画のサウンドトラックを探してみたものの
手にするには至らなかった。
公式にはリリースされておらず、
映画を通して聴くことしかできないのは残念だった。
のちにルイス・デ・パブロのCDを何枚か見つけて購入したが
やはりこの映画とは趣が違っていた。
この映画における旋律はかくも柔らかく、
時に牧歌的で、時に神秘的で、魔法の音楽に思えた。
この映画のサウンドトラックが
いつの日か単独でリリースされることはあるのだろうか?
それは今なお気になってやまぬ所だ。

それと、この映画の遺伝子は様々な現代作品に
飛び火しているのがうかがい知れる。
スタジオジブリ作品などへの影響はよく知られている所だが、
例えば初期是枝作品などには随所にそのトーンが模倣されている。
また、アカデミー賞作品『シェイプ・オブ・ウォーター』で
一気に注目を浴びたギレルモ・デル・トロなどへの顕著な影響は見ての通りである。
とりわけ少女の目を通してスペイン内戦化の混乱を
ダークファンタジーで描いて見せた『パンズ・ラビリンス』においては
顕著なまでの影響がうかがい知れる。
エリセの世界感はファンタジーでも
子供向けのストーリーでもない成熟した映画として
描き出されてはいるが、子供の持つ純粋な目、
その視線の矛先が、大人には見えない詩情豊かな表情として描き出された映画として、
それらファンタジー映画に大きく影響していることは
紛れも無い事実なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です