大島渚『愛のコリーダ』をめぐって

愛のコリーダ 1976 大島渚
愛のコリーダ 1976 大島渚

ちょんギルティの誘惑。これぞ愛の定めなり

不躾だけれども、愛って何?
そう考えることがある。
無論、こんなところで喉につかえた魚の小骨が
ころり取れでもするように、
簡単に答えが出せるような、
そんな生易しい命題じゃないことぐらいはわかっている。
だから、単なる戯言にしか聞こえないかもしれない。
ある意味、一生かかって解くテーマのような気がするけれど、
この地球が有る限り、人間としての営みが、
愛を中心に回っていることだけは確かなようである。

なんだ、それぐらいのことしかいえないのか、
だったら、たいそうな口を叩くな、と言われそうだが、
愛について考えることこそが重要なのだ。
そのために生きている、と言い切ってみてもいいかもしれない。
それはそれで、苦しくも生き甲斐を感じることでもある。

それこそ、世の中には宗教的な愛もあれば、情的愛もある。
即物的な愛もあろう。
形はともあれ、愛はそれぞれの個の内側にある。
対象同士で分かち合う愛もあれば、一方的な愛もある。
そんなものは愛じゃないかもしれない、ってな巷の五万の薄っぺらい愛を含めて、
愛とは、人々の生きる上で、
必要不可欠なものだということからはじめなければならない。

そんな愛にまつわる映画について、
そうだ、ここぞとばかり
真っ先に思い浮かべるのが大島渚の『愛のコリーダ』である。
コリーダとは闘牛のことだが、まあ、それ相応の
激しさ、パッションを感じることだけは約束できるが
よしんば、万人に勧めたくたって
そんな簡単に見てちょうだいよってな代物では決してない。
人を選ぶこと間違いなし。
フランスのアルゴスフィルムの出資映画だから『L’Empire des sens』
つまりは「官能の帝国」なんていう改まったタイトルがついている。
言わずもがな、バルトの『表徴の帝国』を意識したものだが、
なるほど、官能についての意識の高さは濃厚に匂ってくる。
さすがは大島である。
また、溝口組からの裏方職人の素晴らしき匠の技も素晴らしい。
全編華麗なるセット美術を担当した戸田重昌は
溝口組伝説の一人水谷浩の弟子であり、
照明は岡本健一、小道具には荒川大といった
京都撮影所から集った一流どころが顔を揃えている。
通りで格調高い画面が仕上がっているわけだ。

公開当時は、ハードコアポルノなどと言われて
当然、検閲の手が入ることになるのだが、
芸術か猥褻かと随分物議を醸し出したこの問題作は、
残念ながら、我が国では原形を歪めた形でしか公開されず、
2000年の「完全ノーカット版」でさえ、ちょいと野暮なボカシ入り。
そのものズバリを鑑賞するには、海外に赴くか
輸入盤を入手するか、であった。
要するに、いわく付きの映画として公開された。
のちに脚本とスティールを収録した本が裁判沙汰にもなった。
しかし、まあ、そんな外圧はこの際どうでもいい。
『愛のコリーダ』ほど純粋に、愛の映画だと言い切れる映画に出会うことは、
そうそうあるものじゃないと思う。
そこは声を大にしていっておきたい。
それほどの衝撃があった。

元は、阿部定なる一人の妖婦が実際に引き起こした、
実にセンセーショナルな事件を題材にしている訳で、
その元ネタへの関心からも、この作品へのアプローチは
必然的に、ズバリ、男と女の根源的な愛へとたどり着く。
つまりは性愛抜きにしては語り得ない訳だが、
当時の、頭の固い、日本の遅れたモラルにおいては、
見過ごされるわけもなかったのである。
大島にしてみれば、そんなことは百も承知だっただろう。
これは一つの闘いである。
「猥褻であってなぜいけないのか?」と大島は言う。
つまるところ、大島渚、闘争のフィルムである。
愛を描くことは道徳のみを振りかざして解決するヤワなものではないのだ。
その点、大島の偉大さを改めて痛感する。
こんな映画を堂々と国際的な舞台で撮りあげてしまうのだから、
今一度、大島渚という映画作家を讃えるべきなのだ。

さて、本題に入ろう。
その究極の愛をどう描くか、だけなのに
やれ映ってるだの、やってるやってないだの、
俗物極まりないことばかりが聞こえてくる。
そんなことばかりに目がいく人間に、
この究極の愛など分かち合えるはずもないのは道理だと思う。

がしかし、そこは人間の悲しいサガ。
かくいう自分さえも、当初の阿部定への興味本位な関心と、
それに踊らされた格好の映画への関心が
全くなかった訳ではなかったのである。
まして、愛を理解するにはあまりに未熟すぎた。
そんなこんなの流れで、今、ようやく、おぼろげにだが
愛について、たどり着いたという境地というものがここにある。
もちろん、それは『愛のコリーダ』を通じて得た
単なる思い込みかもしれないのだが、
ここにある愛とは、畢竟するに
愛というものは常に、死を恐れない存在だ、ということだ。

定は吉を愛した。
吉も定を愛した。
それだけではないのである。
愛には証がなければならないのである。
決して、気持ちだけではないのである。
好きだということの証を立てること。
そこに死がある。
それは名目上の終止符に過ぎない。
だからこそ、定は吉の首を締めて、
その上にイチモツをちょん切って、ハトロン紙に包み
肌身離さず、それを持ち続けたのに違いあるまい。
いやはや、阿部定の愛は深くて重い。

殺された方もまた本望であり、
殺した方もまた清々しくも
それゆえに至福この上ないのである。
まさに、コルトレーンの『至上の愛』である。
愛とは、そうした駆け引きを味わうだけのものではなく、
常に生きるか死ぬか、であり、
それをそっくり愛か否かで置き換えることが
「定吉二人っきり」と鮮血で書き殴られた意味なのである。
少なくとも、当時、阿部定に世間の同情が集まったというのには
そうした思いが少なからずあったのだと想像する。
男としては、女にナニを切られ、辱めを受け
情けなや、ととる輩も実際には多いのかもしれない。
が、女たちは、定の一途な思いに、
一定の理解を示したということを意味する。
究極の愛とは、男と女では、そういう意味で、
随分と温度差があるように思われる。

もし仮に、男たる自分がこの定のような悪魔的な女に出くわしたとして、
吉蔵のように、心から身を任せられたかどうか、
そこはなんとも言えないところではあるが、
一つの愛の形として、これほど美しい形はないのかもしれない。
十分に、理解はできる。
そこまでして、愛される男の気持ちを想像するにつけ
何やら少し嫉妬のような、憧れのようなものがあるのは
偽らざる気持ちなのである。

それにしても、四六時中よくもまあ、
何を握ったりしゃぶったり、と女のサガには恐れ入る。
それを受けて立つ男もまた、偉いといやあ偉い。
実物の吉藏のことはさほど知っちゃいないのだが、
それ相応にいい男であったことは想像に難くない。
何よりも、女にとって、惚れ惚れする色男、
と言うよりは、実に痒いところに手の届く、
これほどまでに女泣かせな男はいない、と言う描き方なのだ。
何をしても、まずは定の想いに沿って許容する懐広き男。
椎茸だの刺身だのを女の湿った股ぐらを一度通したものを
いくら色を好んだとて、
嬉々として口に運ぶ男がいったい何人いると言うのだろうか?
愛とは、所詮、当事者同士が良ければそれでいいのである。
他人があれやこれ言うに及ばないのである。
そりゃあ、こんな濃厚なカップルが
我が宿に現れた日にゃ、そこに働くものたちにとっては大変である。
受難である。
みんな「“変態”といっています」などと女中に言われて
下げずまれたとてもしょうがあるまい。

が、兎にも角にも、人の目など、
この二人にとってはどうでもいいことだ。
要するに「定、吉二人っきり」なのである。 
勝手にしやがれである。
見る方もまた、それゆえ腹一杯なのである。
究極の愛ほど満腹感のあるものはあるまい。
これを猥褻だといって茶々を入れる人の気が知れやしない。

事件が事件だけに、阿部定という女の存在をめぐって
いろんな監督が挑戦してきた題材ではあるが、
当然、すべてが観るに値するもの、というわけでもない。
少なくとも、僕個人が認めるのは、この大島版と
もうひとつ、田中登版の『実録阿部定』にもなかなか捨て難い魅力があり
無視できない作品なので、いずれまた、違う機会に語ってみようと思う。

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