伊藤智生『ゴンドラ』をめぐって

ゴンドラ 1987年 伊藤智生
ゴンドラ 1987年 伊藤智生

詩情をはさんだポエティックランドスケープ

伊藤智生によるインデペンデント映画『ゴンドラ』。
三十年越しのポエティックランドスケープ、
この奇跡のような映画をささえているのは、
そんな響きに漂うみずみずしい感性といえようか。
すれていない俳優たちによる、まっすぐながら、
静かで芯の強い演技がじんわりと心を掴んで離さない。

ゴンドラにのって、高層ビルの窓ふきで生計を立てる青年良と
シングルマザーのもとに、学校でもなじめず、
居場所が見出せず愛に飢えた少女かがりが
ふとした出会いから心通わせる映画である。
とはいえ、そんな素朴で抒情的ポエティックさだけでは
語りきれない世界がそこにはある。
子供とおとなの残酷で交わらない視線をめぐって
時代をとわず問題になる心の乖離であり、
少女かがりは居所なき場所から、居所を求めてさまよう。
また、ビルからビルへ、
ある種世間の高みから世を見渡すことのできる良は
人間の本質をどこかで達観している。
だからこそ、この少女の孤独をうめることができるのだろう。

青年と少女。
ややもすれば、ちょっとばかり倒錯的な愛情にさえ
交差する危険な出会いでもある。
いくらだって猟奇的になれてしまうのが人間である。
少なくとも、他人の目は厳しい。
が、そうした危うきエロティシズムとは、実際の方向が違っている。
良は良識もかねそなえながら、やさしく兄のように、
ときに父親のように、かがりに接触する。
こころをとざしていた少女の気持ちを
さりげなく開放することができるのだ。
だから、少女が天使なのではなく、
実はこの青年こそが天使だと、と思えてくるのだ。

二人を結びつけるのは、一羽の文鳥チーコの死。
窓越しに、少女の思いと青年の心が通い始める。
孤独な少女にとって、この文鳥は
まさにもう一人の自分、分身だ。
その自分が瀕している、内なる心の信号の変化を察知する。
だからこそ、誰かにすがりたい、頼りたい。
けれども頼るものがいない。
その不在感を埋めるのがゴンドラである。
けして身内でない良に
かがりはその思いをぶつけ水彩画にしたため手渡す。
こうして始まる、不思議な関係。

そこから後半には、良のふるさと青森の陸奥へと、
二人で小旅行を企てる。
この旅情が実に素晴らしい。
クライマックスはどこかメルヘンチックでもあるが、
かといって、仰々しさやいやらしさなどみじんもなく、
実にけがれなき詩情に彩られている。
この映画に、どこか特異なフィルターを感じるのは
ときおり、その実験的映像感覚でもって
奇妙な感覚に誘われるからである。

廃校を訪れる二人。
かがりがオンボロの足踏みオルガンを弾くシーンで
唐突にエフェクト処理された幻想を見る。
いずれなくなってしまう場所と
どこにも居場所のない魂の邂逅のように
スクリーンは妖しく揺れはじめる。
あるいは、月明かりを元に海岸を歩く二人。
そこで岩場に無数のろうそくを灯しながら、「清めの盃」を交わす。
ふたりをとりもった小鳥の弔いのためだ。
しかし、そのほか、事件らしいことが起きるでもない。

良の父親は、酒に溺れ身体を壊している。
母親が一人、苦難を背負った家族だが、
そうした壊れやすい絆がかろうじてつなぎとめられている家族に、
都会から逃げるように足を踏み入れた少女が
ひとときの安息をもたらす。
かつて、テレビ版『座頭市』で、勝新は
少女、海、それだけで物語になると言ったが
『ゴンドラ』もまたそれを具現化しはするが、
言葉で説明しうるような、そんな無粋な展開になる必然もない。
決してまやかしではない、人間と人間のふれあいとして
ふたりの関係を淡く、水彩画のように描き出してゆくだけだ。

少年時代に父親の姿をだぶらせながら
廃棄されていた船を修復する良。
かがりが大事に持ち合わせた小鳥の死骸の棺桶を作って
二人は黄昏で赤く染まった海に舟を出し
別れの儀式でフェイドアウトする、
なんと美しいラストシーンだろうか。

こうした叙情をみせられると、
男というやつはふと年甲斐もなく、
少女を連れて、どこかの漁村や山村で静かに暮らしたい、
などという願望のような思いのあることを自覚する。
それはこのかがりのような少女であろうとなかろうと、
全く関係のない、文字通りの想像の世界である。
それをファンタジーと呼ぶか
ロリータコンプレックスと呼ぶか、
その違いだけなのである。

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