フォルカー・シュレンドルフ『ブリキの太鼓』をめぐって

ブリキの太鼓 1978 フォルカー・シュレンドルフ
ブリキの太鼓 1978 フォルカー・シュレンドルフ

退行か前進か、永遠の三歳児にグラスを掲げよう

理由もなく奇声を発する人間は、たしかに近寄りがたく
避けることのできない危険な匂いをプンプン発している。
ゆえに、目の前でそれが起こっていれば、
人の心理として、身構えるのもやむをえまい。
と同時に、どこか不思議な魅力をも感じてしまうことだってある。
つまり、人間というものは多かれ少なかれ
心のなかで奇声の一つや二つ、絶えず発しているものだからである。
それを躊躇なくやれてしまうことの爽快さ、
そして生まれてくるあこがれと共感。
あらゆる束縛、通念をふりきって叫ばれるフリーキーな叫びは
現し身においては、どこかで純粋な心に直に響いてくる。

その上、その奇声が、三歳で自らの成長を止め
以後同時にあたかも超常現象としての付加価値を携え
おもちゃのブリキの太鼓を打ち鳴らしながら、
なにやら特別な能力として発揮されうるとなると
なおさら顕著である。

これがあのフォルカー・シュレンドルフの代表作にして傑作
『ブリキの太鼓』オスカル少年の得技だ。
オスカル・マツェラートは、危険というか、
なにやら心内にひっかかることがあれば
即座にこの能力を発揮し、
周囲のガラス類を容赦無く木っ端みじんに粉砕してしまう。
つまり、本能としての嫌悪を特異な形で表してしまうのだ。
悪童どものいじめを受け、カエルの煮汁を無理やり飲まされそうになった時や
母親が不倫の逢瀬に夢中になっている時に、
一人彼は、この威力をまざまざと見せつけるのだ。
つまりオスカルは内なる想いの率直なる発露者であるのだ。
いやはや、恐ろしいが実にすがすがしいのである。
あんな能力が子供の時分にでも備わっていたならば、
さぞや痛快だったに違いない、
思わずそうつぶやかずにはいられない。
とはいえ、映画は一筋縄に行くはずもない・・・

まずもってオープンニングの祖母と祖父の馴れ初めからして
奇異としか言いようがない。
ジャガイモ畑で焚き火中、警官に追われた男を
何重にも“武装した”スカートの中に匿った際に
オスカルの母アグネスが、その“タネ”として植えつけられてしまうのだ。
そうして成長した娘が、このオスカルを産み落とすことになるころ
ポーランド人の従兄弟ヤンとの情事に激しく身を委ねる妖婦にまで成り果てるが、
海岸で引き上げた大量のうなぎに占領された馬の頭部に
ショックを受けたのをきっかけに
異常なまでの魚食い三昧のはてに突然死。
それ以降、お手伝いとしてマツェラート家にやってきたマリーアに恋心を抱くのはいいが、
ここでもまた奇異な遊戯に目覚める。
唾液にソーダの粉末を混ぜ、それをヘソ酒のようにして舐める。
父アルフレートの後妻に収まった彼女が身ごもった異母兄弟であるクルトを
その際の授かり物だと考える誠にめでたき倒錯ぶり。

あるいは、心を通じ合わせるベブラ率いる
慰問楽団の歌姫ロスヴィータとも睦じい関係に陥るが
その歌姫は連合軍の一撃の前にあっけなく命を落とす残酷さ。
このように、成長を止めた少年に降りかかる現象は
いちいち陰を帯びることばかりだが、
やることはきっちり大人顔負けの行為であり
どこか常軌を逸脱していても、
絶えず、永遠の少年性をも失わないところが
オスカルのオスカルたる所以なのである。
こうして容赦無く、エロ、グロ、倒錯的なものが跋扈する中
確実に人を選ぶ問題作である。

もとはギュンター・グラスによる戦後ドイツ文学の頂点を極める
傑作小説の映画化である。
映画版では、父親の死、葬儀の際に
「なすべきか、なさざるべきか」この葛藤の末に
ふたたび成長への意志を決意しブリキの太鼓をも埋葬し、
二十一までの実にいびつな“少年期”の歩みに終わりを告げる格好で終わる。
個人的には成長を宣言した後の十年の物語を含め
さらに続きを見たいところだったが、
ここまでの波乱万丈の人生だけでも
十分に魂を揺すぶられる思いがした。

小説で描かれた、その“失われた”十年の間には、
美術学校で彫刻を習い、モデルになり
そして昔とった杵柄、ジャズドラマーになり生計を立てるまでになって、
それなりに成人した姿を見せるのだが
そこで、あらぬ殺人容疑を仕立てられて逮捕される。
そうしてついにオスカルは
現実の世界で社会的制裁を受ける格好になるのだが、
そこで出た結論は、つまり精神病院への収容である・・・
やはり、成熟ではなく、いびつな早熟性が産んだ悲劇だと
思わざるを得ないこの成り行きで、
オスカルが、三十路の入り口で
精神病棟の住人たる我が身の過去を紐解いて、
看護婦相手に振り返る話になっている。
それがあの祖母祖父スカートの下のマジック劇場に始まる
冒頭のシーンへと繋がって行くのである。

しかし、終始わからないまま頭をモヤモヤ悩ませるのは
果たして、オスカルのどこまでを少年とするのか、
と言うあたりの核心部分についてである。
個体としての成長は3歳のままでも
頭の中身はそうではない。
父親が地下室に繋がる床の扉を閉め忘れたことに乗じて
転落することで成長を止めるなどと言うのは
どう見たって三歳児の知恵ではない。
そのことを筆頭に、いろんな事象と照らし合わせ鑑みても、
確かに行動の動機は子供の範疇をとっくに逸脱している。
それはオスカルが絶えず見せる眼差しの中に
少年性が大人としての戸惑いを持って交差することからも明らかである。

が、この作品をなんどか見直ししていると
オスカルの特異性と言うのは、
結局は戦後ドイツの混乱期における
大衆心理の反映の象徴として描かれているのだと言うことに思い当たるのである。
馬鹿馬鹿しいまでのヒットラー崇拝劇。
そして町を覆う人間の狂気と狂態の惨劇の数々。
その中で、大人たちの奔放な猥雑さに
生まれながらにして背を向けてきた一人の少年がオスカルであり、
少年でありながらも、すでに老成した精神との間で
彼は真の成長のタイミングを測っていたのである。
だから、当然、オスカルは純然たる少年ではない、と言うのが結論である。

では一体何なのか?
それは少年遊びに高じすぎて、ついぞ少年にすらなり損ねた
座敷わらしの類、なのではあるまいか?
もっとも、日本の伝承にある座敷わらしが
家の趨勢に関る一種幸福をもたらす神の化身でさえあるのに対し、
あまりにもパーソナルで、あまりにも世俗を反映するところの超個の存在なのだ。
その飽くなきまでの不器用なる奮戦ぶりが
我が心の太鼓を打ってまないのである。

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