クシシュトフ・キェシロフスキ『トリコロール/白の愛』をめぐって

トリコロール/白の愛 1994 クシシュトフ・キェシロフスキ

愛はいつも五分五分で

映画にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、
シリーズものに引きずられる、ってのは往々にしてある。
とりわけ3部作と銘打つだけで、なんだかわくわくするものがあり
内容以前に食いついてしまうのだ。
別に続き物である必要はなく
それぞれに根底にながれるものを自分なりに見出しながら
その違いや共通項等をじっくり味わうというのは
一粒で三度美味しいとばかりの、
そう、それが三部作としての醍醐味であり、贅沢なのだ。

キエシロフスキの「トリコロール3部作」は
フランス政府の依頼を受け、それぞれに
ヒロインにフランスの女優を起用したフランス映画だ。
この3部作はそれぞれが独立した話になってはいるが、
全部見終わると相互にちょっとした“関わり”があって
気づかされる面白みがある。

まだ見ていない段階において、
ジュリエット・ビノシュの「青の愛」に最も期待し
その次に「ふたりのベロニカ」で気になっていたイレーヌ・ジャコブの「赤の愛」
そして最後にジュリー・デルピーの「白の愛」ってことだった。
女優の好みがモロに反映しているわけだが
全部見終わってみると、映画としての評価が真逆になってしまった。
それぞれに見所はあるのだが
まずは一番心に響いたジュリー・デルピーの「白の愛」について
書いていこうと思う。

3本のなかでは、コメディタッチであるということ、
カウリスマキあたりが撮ってもいいような内容を扱っているところに
キエシロフスキにして、ちょっと新鮮な思いがした。

トリコロールとは、フランスの国旗の色で
それぞれに、「自由(青)・平等(白)・博愛(赤)」を意味する、
ということは念頭に置いておく必要がある。
さて、その白が「平等」を意味するのはいいとして、
問題は、平等の意味をどう受け止めるか、である。
まずは、主人公の男と元妻の関係性。
つまりは、恋愛や結婚、愛に平等はあるのだろうか? ということであり
愛と言っても、祖国への愛もあれば
そこには兄弟愛さえも含まれるのかもしれない。

カロルが妻に愛想を尽くされた原因は性的不能によるものである。
肉体の切れ目が縁の切れ目にはなったものの
どこかで愛情はつながっている、というのがオチでわかる。
ポーランド人であるカロルはろくすっぽフランス語もしゃべれないなか
頼りだった妻ドミニクにも捨てられて
フランスではなす術がなく、いよいよ絶望的だ。

とはいえ、この映画は、いわゆる単なる復讐劇ではない。
天使たる妻に性的不能から愛想を尽かされ、
惨めな思いで密入国の形で這々の体でもって母国ポーランドへ舞い戻って
今度は出世してそのメンツを見事回復するも、
あとは妻の心をどう振り向かせるか、という命題が残っている。

人によっては、カロルは自分が味わった屈辱を
妻であるドミニクにも味あわせてやる、というような
仕返し(復讐)を持って平等を体現した、ととる人もいるのかもしれない。
ドミニクは偽装で死んだカロルに情を揺すぶられながら
挙句には夫に嵌められた格好で逮捕され入獄してしまうのだがら
カロルが味わった屈辱は、存分に果たしえたと言っていいのだろう。

しかし、そんなことがメインテーマになっているのだとしたら
この映画はとても陰惨でつまらないものになったと思う。
キエシロフスキという監督は、何より、愛と運命を描く監督である。
それはこの三部作の基本テーマである。
カロルが流した涙こそは、改悛の情を示してくれたドミニクへの愛であり
自分が味わった屈辱の根本が
この愛の復権に他ならないものだと受け止める方が
誰もが幸せな気分になれるというものだ。
ここでようやくここでの平等の意味がわかってくる。

あれほどまでに一方的だった愛が、
回り回ってようやく、対等になるのは
愛が通じ合うということなのだ。
ふたりの状況がたとえどんな困難な状況にあろうと
心が通じ合っていることが全てなのだ。
パリ 、ワルシャワ、それぞれがアウエイな環境で
惨めな思いの中で、すがるものは相手、
つまりは愛するものだけである。
いみじくも、ポーランドの民主化が行われた1990年初頭に
この映画が母国の外(フランス)で製作されているわけだが
少なからず、その思いが主人公カロルの思いのどこかに
重ね合わされていたのかもしれない。

この映画には政治的な描写は一切ない。
しかし、越境者たる一人の男に降りかかる境遇の惨めさによって
彼を取り巻く、周辺の愛情が彼を支えるシーンの大きさが描き出される。
ポーランドに戻って事業が成功したのは
窮地を分かち合ったミコライの手ほどきや兄の無償の援助があったからだ。
彼らは皆、カロルの復讐劇の意味を理解している。
他者に対する優しい眼差しこそが愛の本質であるかのように。

ちなみに、カロルとは、英語圏で言うチャーリーであり
悲喜劇が展開される本作の主人公の道化ぶりは
監督からその意を受けて演技に臨んだというから
どこかあのチャップリン映画の主人公に重ねあわせて
見ることができるのかもしれない。

泣くべき状況を笑いとペーソスで脱ぐいさってしまう『トリコロール/白の愛』。
三部作に通底する運命の悪戯あっての物語に乾杯しよう。

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