『小早川家の秋』をめぐって

小早川家の秋 1961 小津安二郎 東宝

飽きのこない拡張子ozu.

秋深し。気温の変化に伴い
秋も彩りを増して佳境に入る。そして晩秋へ。
「晩秋」と書けば、いよいよ小津安二郎の世界である。
遺作『秋刀魚の味』をはじめ、『秋日和』『彼岸花』
ときて
晩年、立て続けに秋にちなんだ傑作が目白押しの小津作品を
ここで取り上げてみたいと思うが、
特に感慨深い『小早川家の秋(こはやがわけのあき)』について
書き進めてみたいと思う。
(季節的には夏の終わりの話なのだが・・・)

定番のドンゴロスバックに、
白と赤のグラフィックなタイトルバックで始まる、
変わらぬ安定の小津調と思いきや
この『小早川家の秋』はホーム松竹ではなく
アウェイの東宝作品である。
東宝のプロデューサー藤本真澄ら、たっての希望により
招聘された客人映画として
通常の小津作品には見ることのない、
ちょっとだけ異質な空気感を孕んでいる。

結婚による家族のあり方、
主に親子関係をメインに描いてきた小津によって、
『小早川家の秋』では老いらくの恋、
そしてそのあっけない死をめぐる家族の物語として
松竹顔なじみのスターに、東宝からも
新珠三千代、宝田明、小林桂樹、団令子など
豪華絢爛スターたちが作品を彩ることになった。

厳粛なスタイルに唐突に介入する異質性。
何と言っても筆頭は森繁こと、森繁久彌である。
アドリブ、饒舌、ちょこまか動きのある俳優とくれば
いかにも小津映画に似つかわしくない喧騒を想起させるが
そこは三顧の礼をもってして迎えた松竹の巨匠の顔に
泥を塗るわけにはいかない。
(実際の現場はそれなりに不穏な空気も流れたというが)
女やもめ、原節子の再婚相手として画を賑わせる、
言うなれば道化的役どころ、
といった風勢で顔をのぞかせるだけである。

メインは伏見の造り酒屋「小早川」の主人万兵衛こと
中村鴈治郎とそのかつての愛人役浪花千栄子との絡みだ。
流石にこの二人の掛け合いは絶妙であり見事な間合いである。
家族の言葉を借りれば“焼けボックリ”、
老いらくの恋路というべきものが、
腫れた惚れたではない、男と女の関係を、
実に、さりげなくもいぶし銀の演技で、
この映画を格調高いものへと押し上げている。
とみに愛人詣が増した主人の動向を店員に探りを入れさせる。
ここではユーモラスに鬼ごっこテイストの尾行劇、
あるいは孫との鬼ごっこに乗じて
なんとか娘の眼を盗んで愛人のもとへ駆けつようとする万兵衛の様が
ゲームのように実に面白い。

それにしても情緒溢る酒造業の樽、
あるいは日本家屋の佇まいが、
なんとも美しい無人の空ショットで繋がれ、
物語の間として、芸術的な趣きを呈している。
そこに東宝組、とりわけ気の強い娘役の新珠三千代や、
その逆、気弱な養子風情見事なまでの小林桂樹、
いかにも癖のある山茶花究といった脇役たちが取り巻いて、
原節子や杉村春子といった従来の小津組が
いつもと変わらぬ、存在感を放っているところに、
不思議な空気が漂う。
とりわけ、死について思いはせる役に、
常連笠智衆演じる農夫を配役にあてがい、
火葬場の煙突の煙を見ながら、
「死んでも死んでもあとからせんぐりせんぐり生まれてくる」と呟かせ、
現代音楽家黛敏郎による「葬送シンフォニー」を伴い
思わずルネ・マグリットの絵を彷彿とさせるような
実にグラフィカルな構図のラストの葬列まで、
いつもとはちょっと違った小津調が丁寧に刻まれてゆく。

それでも、根底は同じである。
家族というものは、些細なことで喧嘩をし、
実にあけすけにお互いのこと、あるいは家のことをめぐって心配をしつつも
結局は身近な他人でしかない、という縮図である。
それを大人の会話と抑制された演技、
そしてこだわりの構図、小道具で持って演出する小津調は
黒澤組のカメラマン中井朝一、成瀬組の照明石井長四郎を迎えて、
たとえアウェイであろうとも揺らぐことはないのだ。
ただし、編集のリズムにこだわったこの名匠は
急遽、盟友浜村義康を呼び寄せたというから、
一つ一つ絵のようなカットの思いに込められた、
小津のこだわり、思いが静かなまでに
力強く、じんわりと伝わってくる名作に仕上がるのである。

秋はやっぱり小津映画に限る。

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