石立鉄男とユニオンドラマをめぐって

雑居時代 1973年〜1974年、日本テレビ
雑居時代 1973年〜1974年、日本テレビ

雨傘閉じても昭和の灯を消すことなかれ

いまでこそ、テレビなどまったく見なくなってしまっているが、
まがりなりにも昭和という時代に生まれ、育ってきた世代として
テレビというものは絶対の娯楽であった。

その王道にまだ野球がどっしり君臨していた頃、
「雨傘番組」なるものがあった。
つまり、ナイターが流れた時のみに放映する差し替えの番組、
いわばその場しのぎの代打番組である。
何と言っても当時の野球人気=ジャイアンツ人気は不動で
その試合を独占中継していたのは日テレであった。

その日テレ中でかかったドラマがけっこう好きだった。
随分見応えのあるドラマが多かった。
なかでもユニオン映画社が提供したホームドラマはなかなか秀逸だったように思う。
『おひかえあそばせ』を初めに、七作目『気まぐれ本格派』に到るまで、
子供心にどれも印象に残っているものばかりである。
(実際はリアルタイムではなく、主に再放送で観ていたのだが)
70年のホームドラマ黄金期の要素は
このシリーズにおいて顕著に描きだされていた、といっていいのかもしれない。

堂々その主役を張っていたのが、石立鉄男という人である。
もじゃもじゃ頭で、のちにラーメンのCMなどで人気を博した
まさに昭和のコメディ・CMに欠かすことのできない
時代を象徴する俳優のひとりである。
はじまりはその第三弾『パパと呼ばないで』で
実の姉の一人娘を預かり、父親代わりに養育する独身男を演じたことで
お茶の間に存在感を示し一世風靡したアレである。
杉田かおる演じるその娘を呼ぶ声真似「おいチー坊!」といった
甲高い声がトレードマークだったアレだ。
とにもかくにも、日本のジャック・レモンと言われたほど
その三枚目ぶりには代替えが効かない強烈な個性が宿っていた。

その帝王テツオがお茶の間から姿を消してから、
テレビドラマは愕然つまらなくなった、
と言い切っても過言ではないかもしれないほど、
昭和のドラマにおいては、特別な存在である。
しかし、あれほど70年代にお茶の間を賑わした名優でありながら、
世間では、どんどんと忘れられていく存在の運命を辿り
実に寂しいものがあった。
とりわけ晩年の冷遇は彼の孤独死を際立たせ
昭和を愛する人間に少なからず衝撃を与えたものだった。

日テレのユニオンドラマだけではなく、
TBSでの大映との共同制作「赤いシリーズ」や刑事ドラマにおいても、
その華やかさは変わらなく
お茶の間にインパクトを与え続けていたのを
つい昨日のことのように覚えている世代である。
「薄汚ねぇシンデレラ!」というセリフで
アイドルキョンキョンをいじめ抜いた
『少女に何が起こったか』での悪役ぶりも印象深い。
けれども、個人的には『おひかえあそばせ』に始まる
日テレのユニオン映画ドラマ一連のシリーズの方に
圧倒的な思い入れがあるのである。
何しろ、石立鉄男という俳優の円熟期に重なった当時のシリーズは
いつしか雨傘番組の枠を越え軒並み人気を誇った。
中でも『パパと呼ばないで』は天才子役と謳われた
杉田かおるの演技とともに、時代を代表するドラマとして
当時観ていた人々の心にいまなお留まっているはずだ。

ユニオンドラマがなぜ、ここまで心に残っているかといえば、
よく練られた脚本、全編をフィルムで撮影し、
味のあるセット撮影といった体制の勝利とも言える。
一つに映画畑のスタッフが番組を支えていたということによって、
ひとえに丁寧なドラマ作りがなされていたことが挙げられるだろう。
その上に、石立鉄男をはじめとする個性豊かな俳優たちが
さほど制約を受けずに自由な作品作りの元で
確固たる情熱を注いだ結果の産物として、
単なるノスタルジーに収斂されないだけの内容を残したのだと思う。

例えば、画面へ向かってお茶の間への語りかけなど、
石立鉄男は当時のステレオタイプのテレビ界では
タブーとされていたようなアンチ演出を
演出家の意図を無視してまで自由に飛び越えた演技も少なくなかった。
例えばシリーズ二作目『気になる嫁さん』27話では、
本編の中に制作ドキュメントを持ち込むといった斬新的な回もあった。
テレビ全盛期に垣間見せられた遊びの影響力は
以後のテレビドラマに多大な影響をもたらしたに違いない。
テレビというメディアが力をもった上で
とにもかくにも、おおらかな時代、
天才が自由奔放に振る舞うことでテレビが面白さを増し、
言い方を変えれば、時代が天才たちを手のひらで
巧みに転がされる時代であったということなのかもしれない。

さて、そんなユニオン=石立ドラマシリーズでもっとも好きだったのは
『パパと呼ばないで』に続く『雑居時代』という恋愛コメディだ。
「面倒くさがり屋の親父が誕生日にちなんでつけた」という
11月11日生まれの主人公、売れない二流カメラマン大場十一(じゅういち)が
事もあろうに実家の二階に居候するという変わった設定で、
(一人息子勘当後の豪邸を、外国への移住に伴い親友に安く譲るという、
今考えても強引な設定だったが)
しかも年頃の女4姉妹プラスアルファとともに雑居し、
巻き起こすスラップスティックな恋愛コメディが
実に洒脱なホームドラマだったからである。
調布にある実在の家をモデルにスタジオ設計されたセットが
実に素晴らしく、
豪邸に庶民が住み、しかも独身男が年頃の美人姉妹に囲まれて暮らすという、
どこか当時の寓話にさえ思える設定に
当時の庶民感覚では、ちょっとしたロマンがあったのだ。

一階と二階という空間移動が絶妙な舞台装置の役割を果たしていて、見応えがあった。
また、カメラマンである十一が通う
渋谷の写真スタジオもまた、実に味わい深いセットで
この二つのセットを中心に25話の物語が撮影された。
ストーリー自体は元祖雨傘番組の『おひかえあそばせ』のリメイクであったが、
脇役たちに到るまで、実に人間描写の豊かなドラマであった。
雨傘番組という冠の響き通り、一連のドラマは
主に再放送を重ねることで人気を獲得してゆくのだが
多分にもれず、自分がみていたのも、なんども再放送された番組で、
見るごとにはまっていった口である。
このドラマがいまだに心から離れないのはなぜだろうか?
おそらく、今見てもありきたりのホームドラマでもないし、
かといって、突拍子もない世界が描かれているわけでもない。
結局のところ、下地は人間ドラマであり、
時代感性を越えたものが描かれているがゆえに
ハマるのだと帰結するのだが、
その上で、石田鉄男のハイテンションで
かつ、自由で揺るぎのない演技力の前に魅了されていたのである。

ユニオンドラマだけでも十分な存在感を示した石立鉄男であったが、
当時は飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を獲得していった中で
多くの逸話を残している。
現場には予定通り現れない、
脚本は書き換えてしまう、
共演者とのいざこざなど、頂点にたったものに固有の、
ある種のトラブルを挙げるにはこと困らない俳優であったのは確かなようである。
ギャンブルや趣味に没頭し、実に豪快で奔放な実生活を送っていたという。
そのギャップが、90年代以降の冷遇に繋がってゆくのだが、
それこそが石立鉄男の魅力であった。
最後は熱海で雀荘を経営しながら余生を送っていたというが、
その最後はあまりにあっけないものであった。
けれども、一時代を築いた実績と
元は俳優座出のオールマイティな演技力が支えたことは間違いない。
何より、カリスマ性、そしてある種の天才性を持っていたことは
今一度見直されていいと思う俳優である。

間違い無く言えることは、この石立鉄男が出ていた70年代のドラマは
掛け値なく面白かったということであり、
個性あふれる俳優と腕を持ったスタッフたちの奇跡的な共同作業が
時代の良き空気感をそこなわず、素朴でありながらも
同時に濃密にかつ熱く繰り広げられていたからだろう。
まさに良き昭和の風景がそこにあった。

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