植草甚一をめぐって

植草甚一 1908−1979
植草甚一 1908−1979

雨降りだからJJの話でもしてみよう

愛に溢れたものはいつだって素晴らしい。
好きなものに理屈など無用なのだ。
愛の気配、波動、エネルギーは人を動かすガソリンってわけだよ。
J・Jこと、サブカルの神様植草甚一を語るのに
小難しい言葉は似つかわしくない。
そこには古本の匂いと、コーヒーの苦みと
レコード盤の上をクルクルプチプチ這うような感じ
あれがあればそれで十分なんじゃないかな。

晶文社から出ている『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』を
パラパラとめくっているだけで
どうにも幸福な気分になれるんだ。
いろんな人が語るJ・Jを読むといろんな幸福が被ってくる。

長年、エッセイ集成『植草甚一スクラップブック』を傍に所有し
思い出したかのように読んだり眺めたりして
後生大事にしていきたけれど
手元を身軽にしょうと何年か前に全て処分してしまった。
そう、あんなに古本屋を駆けずり回って手に入れた
ちょっと気味悪いぐらい気を惹くコラージュの装丁の
『植草甚一スクラップブック』だとか
『ヒッチコック研究』だとかもあっさり手放したっけ。

そのこと自体に何の後悔はないのだが
さすがに全41巻のヴォリュームの代物を
完読せずに売り払ったことには
ちょっとした後悔のようなものが残っている。
ことさら、モダン・ジャズのレコードを聴くたびに
ヌーヴェル・ヴァーグの映画を見るたびに
そんな思いに駆られるのであった。

そんな折、また自分の中にJ・Jの息吹が宿り始め
生誕100年記念出版+インタビューCDも収録された
『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』を
図書館で新たに借りて読んでいるってわけなんだ。
アメリカのボールペンについての蘊蓄を語るJJの肉声のあと、
奥さんの梅子さんがいうには、
J・Jが所有した膨大な書物だって
読んでいないものが随分あったっていうものだから
なんだかすっと胸を撫で下ろした気分になったんだよ。
おまけに整理が下手で、いろんなものが雑然としていたっていうじゃない?

なあんだ、そうだと思った。
そりゃそうだろうって思う。
古本巡りが好きで、本いう本に囲まれているのが
J・J流の生活だというのは知ってるけれど
あの植草甚一にしたところで、衝動で買い漁った本も多いだろうし、
何しろ、ものを買うばかりで整理ができなかったというし、
雑然と積み上げらてていた本に一回も目を通さないってことも当然あったわけだ。

かくいう自分も本やレコードに囲まれていた頃には
そんなことがしょっちゅうだった。
でも買ってしまうのだな。
余りにも魅力的なタイトル、装丁、言葉を見かけると
それが海のものとも山のものともわからずとも
思わず買いたくなってしまうだよ。
まさに衝動ってやつだ。
まさに、モダンジャズそのものだといっていい。

植草甚一に教えてもらったことは
今でも大いに役立っていると思う。
『ぼくは散歩と雑学が好き』に代表されるように
散歩と雑学の楽しさ、古本と珈琲の日々、モダンジャズ、
映画に推理小説、そしてコラージュアート。
それだけにとどまらず、ジャンクアートやら
それらが一体になって形成されていたJ・Jワールドは
今でも魅力的だ。
だから語り継がれる。
そこにはなんの駆け引きもないし
なんの誇張もない。

いやあ、全く本の中身や、植草甚一に押してもらった
ジャズのことや、映画のことに
一行も触れることができないじゃないか。
これは別にミステリーでもないんでもないよ。
愛の先走り、ってやつだ。
好きだってことしかこの文章には記されていなくって
文字通り、J・Jというサブカルのジャイアントステップに対する
単なる憧れだけしか書けていないかもしれない。
それでも、いいんだよ。
雨の日が退屈だって思わずに済んだし
また本や音楽や映画に対する愛も
自分の中じゃ全然枯れていないってことがわかったし
何よりも植草甚一って人がずっと好きなんだってことを
再確認できただけで、よしとしよう。

BLUE MONK:Thelonious Monk From 『Alone in San Francisco』

植草甚一のことを考えていて、真っ先におもいつくミュージシャン、音楽は、といえば、なんといってもセロニアス・モンクかな。そこは文句がないでしょう。ということで、どの曲がいいかな、とまず浮かんだのがモンクの代表曲でもある「Blue Monk」が浮かんだ。ブルーといっても、全然陰鬱なブルーじゃなくって、水玉っぽい明るいブルーのイメージで、いかにもモンクらしいハーモニーがなんともご機嫌な小品だ。

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