ウィニー・ハーロウについて

Winnie Harlow
Winnie Harlow

価値観反転モデルにハローと応えよう。

We have nothing different about ourselves. It’s just skin.
-Winnie Harlow-

肌の色だけで憎しみや悲しみ、論争や事件を生む時代。
「私たち、何も違わないわ。ただの肌よ」
本名シャンテル・ブラウン・ヤンというカナダ出身の
世界で最も美しい「まだら肌」のモデルの言葉が
ふと目に留まる。
ファッション界、モデル界を語れるほど、
その分野には明るくはないが、
このイットモデル、ウィニー・ハーロウについて、
いいなと思った。
素敵だと思った。

その触れ込みとは、
別にまだら肌だから美しいわけではないのだが、
美しいモデルが、偶然まだらの肌を持っていたに過ぎない。
つまりは、まだらな肌を自分の武器に、
堂々とモデル活動をする彼女は、
美しいという言葉を超越し、
新しい美の観点を提示するモデルなのである。

それは与えられた個性を尊重し、
自然な形で受け入れるということ。
全ての原点はそこにある。

尋常性白斑という疾患は、
肌の色素を破壊するが故に、
生の肌を露出してしまう自己免疫疾患である。
特別な治療法はないとされている。
黒人であるが故に、
あのチョコレートカラーが白く抜けてしまえば
当然明確な模様が浮き出てしまう。
しかも、全く予期しない箇所の色が
抜け落ちてしまうのだから、
自ずとまだらになってしまうのであり
それを隠し続けるには無理がある。

天は黒でも白でもない肌の人間として
彼女に天命を与え、
それを彼女が受け入れたに過ぎない。
ただそれだけのことである。
とはいうものの、精神的にも随分辛い思いもしてきたただろうし
吹っ切れるまでには随分時間を要したものと推測する。

それは別に黒人固有の疾患ではなく、
白人や他の有色人種の間にも見られる症状でもある。
人口の約1%未満の確率で発症すると言われるが、
もっとも有名なところでは、
あのマイケル・ジャクソンが、この奇病に罹患していたとされる。
マイケルがそのことをどう思っていたのか、
今となっては知る由もないが、
多少なりとも、晩年の整形ゴシップに
関与していたのかもしれない。

なぜあんなに個性的な模様の猫がいるんだろうか?
動物や植物や昆虫の世界にも珍しいことではない。
それとなんら変わりがないにもかかわらず、
人間の美意識というものは、時に残酷である。
他人と違っているものに対して
偏見や差別、奇異な視線を押しつける人たちがいる。

いくらよく似ていたとしても
全く同じまだら模様の猫などいないのだから
人間がまだらであっても何ら不思議ではないし
それを持って堂々個性と呼べばいいものを
人間というものはかくも観念的な生き物である。

ウィニーでさえも、小さい頃にはいじめにあって
「シマウマ」や「牛」というあだ名をつけられて
コンプレックスを抱えてはいたというが
そこで彼女は肌を白くするよりは、
それを逆手にとって個性として生きる道を選択した。
その結果、アメリカのモデルオーディション番組
「America’s Next Top Model」への出演をきっかけに
一躍スターダムへとのし上がる。

価値が反転した瞬間である。
が、そうした結果を彼女自身は
「肌について話すのはウンザリ」だとして
容姿そのものへの興味本位な関心をよしとはしない。
モデルという職業においては
奇妙なアンビバレントな感情だろう。

『Grazia』誌の取材では次のように語っている。

私は人の手本になる人だなんて呼ばれたくないの。
私は私。それだけのことよ。自分らしく人生を生きているわ。
私だって失敗はするし、悪い言葉もたくさん言ってしまう。
私は自分の人生を生きているひとりの若い女性―それだけのことよ。

彼女は自分の境遇を受け入れるだけのことで
自分らしいかけがけのない個性を手に入れた。
けれども、それは特別なことでもなんでもなく
肌を意識せざるをえないのは、
あくまでも肌の色をめぐっての、
他人の視線そのものに潜む
歪んだ優劣への捉え方である、といわんばかりであって
本人はいたって自然なのである。

アメリカや西洋社会では、
概して他人と違うことが尊重される。
そんなことをよく耳にするところだが
反対に日本では、ややもすれば人と違っていることが
陰湿ないじめや疎外を生みやすく
そうした根深い環境であることは否定できない。

けれども、ウィニーがいうように
肌の色が意味を為すのではなく
その肌の色をどう解釈するかが個性であり、
生き方そのものである、という主張は
近未来においてはもっと受け入れられていいはずの思考である。
それが自然体であるがゆえに
ウィニー・ハーロウは世界で最も美しいモデル、
そう呼ばれているのである。
そこに「まだら」という余分な形容詞など、不要だと。

こんな成熟した価値観が、
この国にもぜひ浸透し、定着して欲しいものである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です