『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』をめぐって

Dries Van Noten 1958-

ベルギー発。花のように美しいファブリック・イメージ

秋から冬にかけてモードが花咲く素敵な季節。
身なり一つで表現できる個のオリジナリティ。
モードとはランウェイを巡る攻防だけが全てではないのだ。
美の創造的側面に後押しされた洋服を纏い
この日常の街を闊歩する光景にワクワクする季節。
オシャレとはその中身を映し出す鏡のようなものなのだ。
果たしてどこまで個を表現できているのか?
そんなことすら考えたこともなかった。

広告に頼らず、文明の機能主義に迎合せず、
手仕事を重んじて妥協なき美を追求する真摯な姿勢。
そしてそのイズムを理解するスタッフに囲まれて
有能な組織を運営する手腕。
伝統と前衛、あらゆる美的な物を組み合わせながら
強固に保持され、そして刷新されてゆく世界。

そうした意識に徹頭徹尾基づいた美を創造するファッションデザイナー、
ベルギー、アントウェルペン出身
ドリス・ヴァン・ノッテンのドキュメンタリー映画
『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』を観て
なんと気高く、なんと美しいのだろうか、そう思った。
華やかな業界にありながらも、
地道で地味な佇まいで創造を重ねる深い精神性が宿っているのを感じ取る。
ファッションデザイナーだから、ではなく、その生き樣に共鳴するものがある。

ドリス・ヴァン・ノッテンの洋服を持っておらず
まだ一度も袖を通したこともない。
彼について、ほとんど知らないも同然の人間が、
何が書けるのか、語れるのか?
映画を見るまでは、そんな懸念を抱いてはいたが
それは杞憂に終わった。

ファッションを語れる言語を持ち合わせていなくとも
表現者として、美しいものを分かち合う精神の持ち主なら
そのスピリットに反応しないではいられない。
いや、目の前で起きている事象は興味深いものだった。
ドリス・ヴァン・ノッテンの衣装を纏ったモデル、
およびうまく身体に取り込んで着こなしている人たちの魅力。
そこから発信されるメッセージを波動として受け取るのだ。

理屈で考えれば考えるほどに野暮になるが
まずは、自分の美的センスを信じよう。
そして美しいと感じる感性を支持しよう。
洋服とは、使い古された言い方ではあるが
“生き方”そのものなのだと。
優れたデザイナーたちの共通認識であろう。
ここでもありふれた物の言い方になるけれども
それは美を巡って妥協なきこだわりへの共感、ということに尽きるのだ。
それはショーであれ、日々の生活であれ
根底に流れている思いは同じものである。
今こうして残像を抱えながら、
豊かな気分で過ごしているのはその恩恵に違いない。

ヴァン・ノッテンへの嗜好を共有するファッション感性を持っている人には
たまらない貴重な映画だったに違いない。
映画としてだけ見れば、多少は物足りない側面もあろう。
多くを語らず、ファブリックにその思想を乗せて
身体言語として発せられるドリスの自身の言葉。
「主役はわたしの服ではなく着る女性です。着る人の個性に染められる服なんです」という。
美の神秘に関心のある人間にとっては
かけがえのないたくさんの言葉(ヒント)に反応するだろう。

アントワープ郊外の古めかしい宮殿のような邸宅
ザ・リンゲンホフで、日々花を育て、部屋に飾り、
自前の野菜やハーブを調理しながら、
丁寧な日常の時間をパートナーパトリックと過ごしながら
ファブリックというマテリアルを手に
美を育て発信していくような感性に必要なものが凝縮されている。
そんな姿に世界中の人々が魅了されてゆくのもうなづけよう。
部屋の装飾全てに、まるで美術品のような格式がある。

ファッションというものが、表層の流行り廃れだけではない、
思想的な言語を有しているという意味で、
ドリス・ヴァン・ノッテンがかもす精神性の真髄は
「一緒に成長できる服を作りたい 」というところに尽きるのだろうか?
大量消費社会とは真逆の精神性を宿したファブリック、布地が
その身体を求めて世に流れてゆく、
その流通の神秘を垣間見れた意義は
十分にあったのかもしない、と思うのだ。

いつかドリス・ヴァン・ノッテンの洋服をまとってみたい。
そう思わせる映画であった。

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