小川紳介『1000年刻みの日時計 牧野村物語』をめぐって

小川紳介 1935 - 1992
小川紳介 1935 - 1992

記録から記憶へ、1000年の時空を超える壮大な歴史絵巻に乾杯を。

人生はお祭りだ。

フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』より

日本映画におけるドキュメンタリー史上、
避けては通れぬ二人の巨匠がいる。
土本典昭と小川紳介、両雄である。
ともに岩波映画製作所出身「青の会」の同志である。
前者は水俣病問題への取り組みでその名を馳せ、
後者はあの三里塚空港闘争の渦中に飛び込んで
ともに現地に身をかまえることで、対象に密着するという
ドキュメンタリーの新しいあり方を提示した。
前者が静的ならば、後者は動的なアプローチで
それぞれその揺るぎなき世界観を反映させながら、
日本のドキュメンタリー映画の最先端を走り、
高度成長期から、カメラを武器に時代を背負って戦い抜いた、
生粋のドキュメンタリスト(映画人)である。

その作品群は見るものを圧倒する。
何より雄弁だ。
その躍動的でなまなましい映像は他の追随を許さないものであり、
人間そのものにある、根源的な生のエネルギーにダイレクトに迫ってゆくスタイルは
フィクション映画に慣れた視線に、鮮明かつ決定的な一撃を食らわすだろう。
ここでは、まず、後者小川紳介が率いた小川プロダクション、
通称小川プロによるドキュメンタリー作品に光を当ててみたい。

小川プロといえば、まずは三里塚空港闘争を避けては通れまい。
いみじくも学生運動血気盛な60年代安保闘争から連なる
空港建設への反対運動の波は、
その中心的な左翼勢力の一翼をになっているほどに
なまなましい時代の空気を一身に孕んでいた。
が、とうの農民達はじっさいのところどうだったか?
確かに、そのカメラの前で、反対を叫ぶ農民たちの苦悩は捕らえられ、
もちろん、彼らの身内から逮捕者が出る、
中には、自ら命を断つなどといった、硬派な現実をみせた。
けれども、歴史の流れをよくみてみれば
慣れ親しんだ土地をうしなわれることよりも
水面下では、皆、みずからの生活をえらび、
すでに未来への抜け道を画策していたのは明白な事実であった。

しかし、小川プロによる闘争の記録には
常に政治的側面と組織的経営の危うさが同居していた。
そうした現実の側面は、表層の激しさに比べて
あえて視線の外にあり、
その綺麗事は内部での分裂さえ余儀なくさせる。
確かに、シリーズの中でも、傑作『辺田部落』は、
この小川プロにとって重大な岐路にさしかかった重要な作品であった。
闘争への眼差しから、農業への回帰への方向転換の予感が
すでに懐胎されていたという意味で、
その後、山形の牧野へと集団は移行し、
自らが血と汗をその身体に直ににじませながら
農業という自足へとむかってゆくのは自然な流れであった。

そして、足掛けその13年にわたる生活を総括する集大成が
『1000年刻みの日時計』という大輪の花を咲かせることになる。
しかし、ドキュメンタリー史における金字塔というべき、
小川プロのこの偉大な業績は、何も作品の価値だけではない。
故小川紳介の意思を汲みながら、山形という都市を
国際ドキュメンタリーの拠点へと押し上げ
今尚、映画作家の前に開かれ続けているのは、
まさにその遺産以外のなにものでもあるまい。

空港闘争からの脱却として、
『牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画-』に始まり
80年代には『1000年刻みの日時計』の前章となる、
まず、『ニッポン国古屋敷村』において
農業への意思を敢行しながら、土地、人、歴史を結ぶ
壮大な歴史絵巻ドキュメンタリーへと移行しようとしたその軌跡が
明確に打ち出されていた。
それは、言うなれば記録という呪縛からの開放であり、
記録から、記憶へと訴えかけるための手段が模索されているのだ。

そこでは、日出る国ニッポンの稲作への神秘を紐解く
科学的ドキュメントではあるが、
この映画集団が13年の月日をへて、
ようやくたどり着いた映画的ロマンに満ち溢れている。
稲の受胎のクライマックスへと至るためには
水田における水はけの重要性を認識し、
改善へと取り組んでゆかねばならない。
田んぼと一口で言っても、その土壌は千差万別であり、
全てが均等に稲を成長させる土壌ばかりではないことなどが、
み開かれ始めた学童たち蘭々たる好奇な眼差しの如く、
活き活きと語られてゆく。
この水と土の匂い、稲穂を揺らす風が、
受胎の官能性に負けじと強調される。
同録を外した、映画的整音があざといまでに耳にこびりつくのである。

その“ポルノチックな科学ロマン”の途中挿入される「堀切観音物語」では、
金持ちの家にうまれながら、女遊びとばくちにおぼれ
乞食にまで身を落とした与き、という人物を
あの舞踏家の土方巽が演じている。
その姉もん/なか(一人二役)には、日活ロマンポルノ女優である宮下順子。
それぞれに、身体性のエロティシズムを強く醸し出す俳優が起用され
小川プロ作品にとっては、画期的なまでの顕なフィクション空間のなかで
口承の民話が再生されるのだ。

それだけではない。
社に祀られた男根の形をした道祖神を掘り当てる話や
農地から縄文土器や土偶、炉の痕の発掘に至る工程を
わざわざ学者を動員して再現してみせたりもする。
あるいは、まるでイタコの一人語りのように、
村にまつわる超自然現象の話を語り尽くす「木村みねさんの話」。
それら一つ一つは、時空を超え、一つの宇宙のように
場を共鳴させうる力をみなぎらせているのだ。
まさに、映画的な磁場の上に展開されてゆくのである。

しかし、この『1000年刻みの日時計』の特筆すべき素晴らしさは、
隠された真実(歴史)を丹念に、そして誠実に
時間をかけてあぶり出したその熱意にあるのだと思う。
方法論が、ドキュメンタリーであるか、フィクションであるかは
この映画の本質ではないのだ。

クライマックスは、「五巴神社の由来」である。
五巴神社とは、江戸時代(延享4年5月15日)に、
牧野の農民3千人と共に起こした一揆を発端としており、
処刑された牧野村庄屋太郎右衛門の屋敷跡に立てたられた、
いわば鎮魂のための社である。
百姓一揆の結末は、当然、ただでは済まない大ごとである。
その主導者太郎右衛門を含む五人が騒乱罪で処刑という悲劇を見た。
もちろん、屋敷は没収である。
ところが、その屋敷では、以後恐ろしい怪奇現象が続いたのだという。
いわば祟りというか、呪いである。
深夜には、処刑され晒された5人の首が「巴」という文字を描くかのように
宙をぐるぐると回ったというのである。
まさにホラーである。
そうした鎮魂の意味を込めて、
大正時代に彼らの末裔たちが、この五巴神社を立てたというのがその由来だという。
彼ら五人は、そうして、今尚牧野の英雄として語り継がれているのである。

映画には、そこまでの緻密な再現こそなされていないが、
田村高廣、河原崎長一郎、石橋蓮司と言った俳優たちを前に、
ちょうど太郎右衛門をはじめとする村人たちが藩に直訴するあたり、
その末裔である村民たちが熱演しているというスタイルである。
しかし、それは通常の劇映画と異なっているのは、
250年もの間、その子孫である農民たちの内に
深く刻まれた贖罪の意識の開放でさえあったということだ。
なぜなら、彼らは、結果的に、
処刑された五人を見殺しにした末裔なのだから・・・

こうして、鎮魂の儀式(祭り)は終わる。
ラストシーンで、この映画に関わった全ての村民たちが
その手をあげて行進してゆく。
なんと晴れやかな光景だろうか。
まさに祝祭のフィナーレに相応しいシーンなのである。
思い起こそう、それはあたかも
フェリーニ『8 1/2』のラストシーンを彷彿とさせるものだ。
登場人物たち全員が現れ、輪になって踊るあれだ。
それを、ここでやってのけるのだ。
まさに、人生は「お祭り」なのだと。
もはやドキュメンタリーやフィクションという垣根の意味はない。
豊穣な映画的な空間が広がりを見せた222分の、
なんとも壮大な映画に幕が降ろされる。

この映画で、深く印象に残っているものがまだある。
それはジャズパーカショニスト富樫雅彦によるリズムトラックの素晴らしさだ。
全編が、いかなる旋律を廃し、
ただ富樫雅彦が叩き出すリズムだけで奏でられるその響きは、
遠く縄文の太古から、今日の我々の遺伝子にまで長く乗り継いで運ばれるかのような
実に根源的な律動を感じさせる。
それはまさに、『1000年刻みの日時計』を根底で支える魂の波動を刻むのだ。

Spiritual Nature:Masahiko Togashi

この映画にサントラ盤など存在しない。
よって音を聞くには、四時間弱もの間
DVDを再生しっぱなしにするぐらいしか能はないのだが
それではちょっと芸がなさすぎる。
ここは単なるジャズドラマーで終わらない冨樫雅彦の軌跡に
あえてクローズアップしてみたい。

音楽家としては、家庭環境の影響で
早熟ながらすでに10歳ごろからバイオリンをはじめ
13歳でドラマーへの道を踏み出している人である。
その後、日本初のフリー・ジャズ・グループを結成し、
「新宿の三大天才」の一人に数えられるほど、
その腕には確かな才能と情熱が宿っていた伝説の人だ。
しかし、音楽的な天才性以上に、富樫雅彦という人は
いわば問題児だったようで、薬物に手を出したり
妻にナイフで刺され脊髄に損傷を受けたりして波乱万丈の人生を送っている。
その意味では、なかなかの人物である

実験的音響空間集団を名乗るぐらいだから、
当然、通常のジャズや音楽形態と違う指向性を早くから持っており、
その成果は、ちょうどこの小川プロが三里塚闘争へと向かうあたりから
並行するように日本の前衛ジャズシーンをリードしてきたミュージシャンであり、
この小川プロの音楽を手がけるという流れも、
当然至極もっともなことだったと言える。

高柳昌之をはじめとする日本の錚々たるジャズメンはいざ知らず、
セシル・テーラー、マル・ウォルドロン、ゲーリー・ピーコックといった
海外の猛者たるジャズメンとの共演も多く、
まさに、日本のジャズ界のパイオニアとして、
その軌跡は燦然と輝いた経歴を持っている人である。
そんなパイオニアが手がけたアルバムの中から、
『スピリチュアル・ネイチャー』をクローズアップしておこう。
当然、『1000年刻みの日時計』にも呼応した音としても聞けるわけだが、
スイングジャーナル誌のジャズディスク大賞「日本ジャズ賞」を獲得しているぐらいだから、
音楽的にも十分楽しめるものになっている。

改めてこのジャイアントステップの音を聞くことで、
このドラミングに宿ったその精神性と時代の息吹を体感してみると
現代人が失ってしまったものがなんなのか、
少しは理解できる気がしている。
『スピリチュアル・ネイチャー』はとりわけ、
そうしたものへの畏怖を忘れた現代人への警鐘にも思える。

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