ヴィム・ヴェンダース『東京画』をめぐって

東京画 1985 ヴィム・ヴェンダース
東京画 1985 ヴィム・ヴェンダース

ユーはトウキョウに何をみたの?

小津安二郎へのリスペクトを標榜する海外の映画作家は多い。
とりわけ、ニューシネマ世代あたりにその気配、空気を感じるのだが、
その影響力の大きさは、各々作品を見れば
十分反映されているのがよくわかる。
カウリスマキ、キアロスタミ、ジャームッシュetc
中でも、この人は、その影響の大きさを事あるごとに示してきた。
「オズは私の師」とはばからないヴィム・ヴェンダースである。

その最たる影響力の元に製作された『パリ、テキサス』。
それに続く作品で、そのオマージュである『東京画』は
小津映画に馴染のある俳優である笠智衆、
撮影の厚田雄春へのインタビューを中心に
まずは冒頭から『東京物語』が引用されている。
尾道に住む笠智衆と東山千栄子による老夫婦が
東京の息子たちに会いに出かける前のシーンから始まって
ラスト、未亡人原節子が東京へと帰ってゆく車中
再び尾道で、その妻のいない孤独と
すでに子供達が巣立ってしまったことでの関係性の末に現れる、
そこはかとない無常観で締めくくられるあのシーンに挟まれるようにして、
いわば、異国者のみる当時の「トウキョウ」が、
モンタージュされているドキュメンタリーである。

よって、この『東京画』には二つの側面がある。
一つはヴェンダースにとっての小津安二郎への思い、
もう一つは、異国者から見る不思議の国「トウキョウ」の風景だ。
この異国者の視線には、先に撮られた
フランスの作家クリス・マルケルよる元祖東京画たる、
『サン・ソレイユ』の影響下にあるものだと言えるだろう。
よって、これはクリス・マルケルへのオマージュでもあるのだ。
しかし、八十年代の東京の風景と
『東京物語』に広がるかつての東京を比べるには無理がある。
何しろ、『東京物語』は戦後復興下から歩き出した1953年である。
以後、東京という都市は高度成長期をへて、
ある種特異なモンスターな街へと変貌してゆく。
しかし、我々日本人は、そうした現実にさして自覚がないままに生きてきた。
生まれてから、それが当たり前のようにある風景として
この東京という街に暮らす人間が溢れかえっているのだ。
そうした無防備さながらの東京の景観が
一人の外国人、映画作家の目を通して描かれている貴重なフィルムだと言える。

しかし、小津映画に描かれる、
その崇高なまでの神話的東京を求めさすらう事は、不毛である。
東京タワーの展望台では、偶然だか必然だか、
盟友たるあのヘルツォークが登場するのだが
まるで模型のような大都会の景観を見渡しながら語る言葉が耳に残る。
「文明の現状と我々の内面の最深部とその両方に照応する映像が必要だ」と。
そんな両義性を帯びた映像が、
果たしてこの『東京画』に写り込んでいるだろうか?
そして、このヘルツォークの投げかける言葉の意はさらに根深い。
「映像に透明性を与えるようなものは見だしえない」のだと。
「かつて存在したもの」であるにも関わらず、
我々はそれを喪失してしまったのだと。
その失われたものこそを、探し求めねばならぬものなのだと。

その思いに同調するヴェンダースは、
ディズニーランドへの足を自ら止める。
アメリカのコピー文化に、果たしてなにを見出しうるのか?
そのことがふと頭の隅から顔をもたげ始め
パチンコや食品サンプルといった日本独自の文化、
あるいは竹の子族といった時代の符牒を読み取ってゆく。
テレビをひねれば、もはや小津映画にみたあの透明性などどこにもない。
地下鉄の構内で駄駄を捏ねる子供に『おはよう』の子供たちを写し、
練習場で昼夜ゴルフのスイングに時間を費やすものには
『秋刀魚の味』でみた佐田啓二のゴルフスイングを重ねてはみるが、
この異邦人の眼差しには、全てが失われた透明性への郷愁でしかない。

その中で厚田雄春へのインタビューはその郷愁を熱くさせる。
助手時代から小津組一筋に燃焼してしまった厚田の仕事への情熱が
再び、込み上げてくるのだ。
カメラマン自身が感極まって、インタビューがそこで終わる。
なんとも感動的なシーンである。
ロケを好まない、小津に列車のシーンだけは、
本物をと説き伏せたのは、このカメラマンの功績である。
この『東京画』にも電車シーンが幾度となく挿入されているが
最初ほうに、有楽町あたりの新幹線が横切るカットに
そうした小津組の熱い思いが、そんなカットにも凝縮されているのだ。

ヴィンダースの思いは痛いほどよくわかる。
『東京物語』の神話は、もはやスクリーンのなかにしか存在しない。
そして、ヴェンダースが見つめた東京から、
我々はさらに進化した現代の東京を知っている。
そこに見るものは、かつてみた、あの小津的世界などかけらもみられない。
まさに、新東京物語という名の秩序だ。
それを嘆いたところで、何一つ始まりはしない。
ただ、かつて、我々日本人には、世界に誇れる映画作家がいた。
小津安二郎が描いた東京、ならびに美しい成果様式を持った
日本人の眼差しの意味を、この遠い異国の人間に教えられるのだ。
それはある意味、正しい自国への認識へのヒントであり、
貴重な眼差しなのである。

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