中島貞夫『ジーンズブルース 明日なき無頼派』をめぐって

ジーンズブルース 明日なき無頼派 1974 中島貞夫
ジーンズブルース 明日なき無頼派 1974 中島貞夫

和製ボニーとクライド、空虚な社会にぶっ放す銃と自由の闘争の日々

しばらく忘れかけていた梶芽衣子の魅力を
思う存分満喫させてくれた『女囚さそりシリーズ』。
あのディープな映画についての記事はすでに書いのだが、
今度はもう一つの代表作である『野良猫ロックシリーズ』を見返そうとしたところに
間違って『ジーンズブルース 明日なき無頼派』を見てしまった。
が、これもまた面白かったので、書いておくことにしよう。

断っておくが、タイトルに含まれるジーンズなんてものは
この映画をどこからどうみようが突っ込もうが一切出てこない。
なんや詐欺かいな?
と思いつつも、まあ、あくまでもジーンズが似合うような若者が、
アメリカンニューシネマ『俺たちに明日はない』風の雰囲気を持ち込んで
終始駆け回るアクションものを、
とりあえず無頼派の極みとして処理しておくとする。
そんなところで、無理くりに納得して前に進もう。

ちなみに、その梶芽衣子歌う挿入歌「ジーンズブルース」が
タイトルバックに使われ、しっかりと劇中でも流れてくる。
その中の一節で思わずニヤリとしてしまうのだ。
「ああ私ってついてない。いつまで続くの不幸せ」
要するに、何一つ実りのない負の人生賛歌なのである。
幸せよりは不幸せを選ぶ女。
いや、選ぶのではなく、不幸せを生き抜くこそが幸せなのだ。
さすがはネガティブ女王、そんなオーラ満載である。
しかし、ネガティブであることがこんなにかっこいい女って、
他にいるのだろうか?
あのタランティーノが惚れるのも無理はない。
そんなアウトロー、というかダーティヒロインを演じさせれば
ピカイチな女優梶芽衣子の魅力は
本作でも遺憾無く堪能できると思う。

ここでは聖子「SEIKO」ではなく、
「ひじりこ」と呼ばれ、金とセックスにまみれた
雇われママの世界に飽き飽きし尽くした
一筋縄ではいかぬ女を演じている。
とりわけクールビューティな眼差し、
スタイリッシュなファッションに身を包んだオーラには
思わず吸い込まれてしまうのだ。
トレードマークの黒ずくめのレザーファッションもいいが
白いトレンチコートにライフルを持つカッコ良さときたら・・・
よって、この作品は、恨み節を地でゆく
『修羅雪姫』『女囚さそりシリーズ』、
そして自由奔放ながらも、刹那的で無情な運命に弄ばれる幻影を追い求めた
『野良猫ロックシリーズ』との中間地点に位置する作品、
そう言っていいのかもしれない。

主役渡瀬恒彦を支えるこの不幸せな女が
梶芽衣子演じる聖子である。
和製ボニー&クライドと言われるだけあって、
二人の目的は一致する。
つまらない人生からの開放であり、飛躍(逃亡)なのだ。

ところで、さほど関心のないことではあるが、
かつて、芸能界一腕っ節の強い人物が
この渡瀬恒彦だという都市伝説があったのをご存知だろうか?
石原軍団で知られる渡哲也の実弟で、
すでに鬼籍に入っており、元大原麗子の夫であった人である。
記事をググればそれなりに伝説がヒットするし、
証言も出てくることからも、あながち嘘でもないらしい。
もっともこの前に、ATGとの提携で制作した
『鉄砲玉の美学』での渡瀬恒彦を見るまでは
なるほど、豈図らんや、そんなことは考えなかったが、
やはり、たとえ演技であれ、あの血の気の多いチンピラ風情が
単に演技だけで成り立っているとも思えない。
しかし、まあそんなことはこの際どうでもいいが
『鉄砲玉の美学』の渡瀬恒彦の魅力には敵わない。
ただ一見普通っぽく見える人間のなかに、
実は泣く子も黙るそんな熱いエネルギーを
マグマのように抱えているのだと思うと
なんだか、気分も高まってくるし、その意味では面白い。
じつにこの不思議な感覚が
『ジーンズブルース 明日なき無頼派』では
明日なき暴れん坊ぶりとして遺憾無く発揮されていると思う。
渡瀬恒彦の魅力についても、以前記事を書いたので、
ここでは詳しくは触れない。

中島貞夫による和製ニューシネマ、
といった風情のなかで二人の逃避行は、加速する。
はじめは単に金の持ち逃げだったのが、
人を巻き込み殺人にまで発展する。
最後は、その渡瀬の上をゆく肝っ玉っぷりの
梶芽衣子節が炸裂するのだ。

ピラニア軍団からは川谷拓三と室田日出男が
脇役で出ているのだが
これまた味のある演技で盛り上げ役に徹している。
川谷の身体を張ったカーアクション、
といっても走行中のクルマのドアに腕を挟まれながら
なんとか食らいついて離さない必死な姿が
かっこいいというよりはどこか滑稽さを滲ませる。
それが映画のダイナミズムをより体感させてくれるといわけだ。

しかし、渡瀬恒彦の指が途中吹っ飛ぶシーンがあるが
一体このシーンに一体なんの意味があるのか
わからないままに突き進むストーリーは
70年代の自由でひたすらエネルギーの消費や発露に
命をかける空虚な気配のなかで、
そこ高度経済成長の日本の飽食ぶりに
革命とは名ばかりで、無意味な抗争や闘争を繰り返す
活動家たちの内ゲバ模様を背に
希望なき若者たちの怒りの矛先が向けられ加熱してゆく時代が描き出されている。

ここでは愛欲と金と道楽を貪る有閑マダムや
金のためには人殺しなど厭わないチンピラたち
車検切れの車を売りさばいてニンマリする強欲中古車屋。
兄の人の良さにつけこんで小遣いをせびって
田舎で道楽的に暮らす主人公の妹。
そんなゴミだめの社会のなかに
和製ボニーとクライドがひたすら自由を求めてさすらう物語だ。
だがしかし、その代償はあまりに虚しく破滅しか用意されはしない。
そこに切なさがにじむのだ。

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