小林正樹『切腹』をめぐって

切腹 1961 小林正樹

切腹、満腹、ご立腹。究極の恨み武士道を斬る

いまや医療界を含めた、昨今の政治の無責任さ、
この二年近い貴重な時間を奪われ
未だその責任の所在なき曖昧模糊たる空気感が支配するこの狂った現代で
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という葉隠の言葉を
そのまま実行に移した三島由紀夫のことが、ふとまぶしく脳裏に浮かんでくる。
通称、楯の会事件、半世紀も前のことだ。
国内外に衝撃が走ったのはいうまでもない。
かのハラキリが世界を駆け巡った生々しい事件である。
三島氏がもし仮に現代に生きていたら、
はたして、この世の狂騒下の出来事をいかに見ただろうか?
そんなことをふと思い返して、小林正樹の『切腹』を見直してみた。
こちらは、同じハラキリとはいえ、またちょっと次元が違う。

江戸末期、素浪人が名のある武家の庭先を借り、
切腹したいと申し出る。
が、時勢、そういわれても自前の庭が汚され、
妙な噂でもたてば、それこそ威信にもかかわると
概ね、わずかばかりの金銭でもってそれを解決するという、
いわばゆすりたかりの類があったのだという。

その素浪人にも訳があり、
といっても、世間からみればたんなる身落ちからの貧困ゆえ、
まさに落ちぶれた武士の世迷い事にすぎず、
それ故に、素浪人は恥ずべき上記のような振る舞いに出た。
思い半分とはいえ、当然、背に腹は変えられず
いくばくかの金を頂戴せしめ、
その場を去れれば、と考えていた・・・のだろう。
というのが、場を貸す側の言い分だ。
井伊家はそのことならずとも、横行する風潮を真に受け、
というか、武士の風上にもおけないと
なら庭を貸そう、いざ切腹を見守ろうという判断に出た。
俄然、素浪人はうろたえるが、素浪人とはいえ
武士のはしくれ、引くには引けない窮地に追い込まれる。
ただここで、素浪人は、実は病にあえぐ生まれたばかりの赤子を
医師にみせる金を工面するといって家を出た手前、
いったん我が家へもどることを嘆願し、
明日必ずや戻ってくるから、それまで待って欲しい、
と切に乞うが、井伊家は断じてそれを許さない。
きっと姿をくらますに違いない確信犯だとみてとった。

かくなるうえは、潔く切腹するしか素浪人がとる手段はない・・・
が、素浪人が腰に差していた刀は、実は竹ミツである。
つまり、鋭利な刃物ではないのである。
生活のために、武士の魂たる刀を質入れしていたのだ。
木刀で切腹など出来るわけもなく、
まやかしであると、足元を見られてしまった。
腹に据え変えた井伊家側は容赦無く「いたせ」という。
こうなると、意地である。
素浪人は全体重をかけ腹をみずからの竹みつで敢行。
それでも、死に至ることはできない。
素浪人は舌を噛み切ることで、断末魔の叫びをもって、
なんとか介惜の儀にて果てる。
なんとも痛ましい姿を晒したのであった。

そういう経緯のあとに、またひとり同じような動機でもって
素浪人が井伊家の門をくぐる。
そこからの回想シーンを交えて、映画が始まってゆく。
竹みつで非業の死を遂げた素浪人がいかにして
井伊家の門をくぐり、不祥にも切腹などを申し出たか
ということが、その素浪人の口から次第に明かされてゆくのだ。

切腹した素浪人千々岩求女は、新たにやって来た素浪人の娘婿で
すなわち、竹みつで切腹いたしたのが義理の息子であり、
ようするに、彼はその復讐にやってきたというわけであった。
しかも、ただの復讐ではない。
井伊家の情け容赦のない非情な応対を糾弾にやってきたのだ。
そして、生きる気力、生活力を失った今、
自ら娘婿の不遇をはらさんと
彼は命と引き換えに、最後に武士のはしくれとしての尊厳と
人間としての尊厳を死守せんがために
一世一代の覚悟をもって乗り込んで来た・・・
最後、結局は、井伊家対この素浪人、
仲代達矢扮する津雲半四郎という男との抗争へと相成り
この男のために井伊家の家臣たちは
つぎつぎに身を投じながら家を堅守するといった話である。

映画自体は、非情にクールに、
そして回想シーンをうまく挟むことで
見事な構成の映画にはなっている。
なかでも回想シーンにおける凋落した武士の生活ぶりが
なお一層、この話にリアルな情感を与えている。
小林正樹の最高傑作であると同時に
日本映画のなかでも突出した日本人美意識が発揮されていると思う。
武満徹が担当した琵琶の一撥に
緊張感がみなぎり、素晴らしい効果を演出していて
とにかく素晴らしい映画に仕上がっているのは間違いない。

だが、よくよく物語の内容をかんがえていくと、
果たしてここでの論争とは、一体なんなのだ、
ということに行き当たる。
つまり、自ら切腹したいと申し出たものに、
切腹の場として当家の庭を貸し与え
その儀を見届けたにすぎないではないか。
それを逆恨みによって逆に井伊家としては、
家中のものたちまでが犠牲になり、散々な目にあった。
そういう解釈も、当然できるのである。

この問題は、結局、遠回しに武家社会の闇を皮肉ってはいるが
単純な勧善懲悪では捌けないことがみえてくる。
「武士の情け」という言葉があるように
いくら切腹という大義をもちこんだ、ゆすりたかりの素浪人とて
その人情を慮らず、おまけに竹みつで自棄させる
ということへの情け容赦のなさに、
津雲は憤怒やるかたなき心情で娘婿をおもんぱかったにすぎず、
そこで、情さえかけてくれていれば、
何もこんな下手な芝居をうたないですんだのに、
というような、大義名分がある。
同時に、娘とひと粒だねの孫までも病死にいたらしめたことへの、
自分へのふがいなさもあったのだろう。

もし、これが現代であれば、どうだろうか?
切腹などという概念は、土台はなから自殺行為以外なにものでもなく
無理強いさせる時点で罪が問われる話にすぎないが
当時は、まがりなりにも武士道精神として
切腹そのものが美徳とされ、共通認識であったのだから、
そこに人情というやっかいなものをわざわざ絡めるのはいかがなものか、と、
そこには筋の通った言い分がある。

たとえば、現代でいうところの、尊厳死というものがある。
つまりは死ぬ権利、死なせる義務、とでもいいかえようか。
看病に疲れ果てた夫婦一方が看病疲れ、
あるいは看病される方が看病する側を慮るケースもあろう。
そういう場合にさえ、我が国では幇助という問題が問われるわけだが
そこになされた殺しは、
一方で情状酌量という問題が当然あって、
妻のため、主人のため思ってこそ、殺さねばならなかった
という大義に情を汲み取れば、
罪はゆるされはせずとも、正義の入り込む余地は多分にあり、
法律では、そこに執行猶予がついたりする。

情というものがすべて正しく、優先されるべきにもいかないが、
人間の心というものは、一筋縄ではいかない。
一方で情をかけねばならないときもあって、
すべての問題が杓子定規に語られてはならない。
それが個々の主観も手伝っていては、大いなる誤解が生じる。
故に、法というものがあるのだ。
われわれは、そういうことを念頭に常に持って
人と向き合っているのだ。

しかし、それでは映画が成立しない。
一方的に無条件で情を優遇せよ、情を配慮せよ、
というのは強引なことである。
「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
という葉隠、ひいては武士道精神というものが
確かに、我が国、武家社会において
一つの哲学であり、生き様であったことはまぎれもない事実だが
果たして武士の、武士たる理想、真理であったかと
いうところに、人はいったんはさかのぼらねばならない。

つまり、「武士道とは死ぬこと」ではなく、
ときに、死をも辞さない意思のごとく、
物事に勇敢に立ち向かう精神そのものなのだ。
すなわち、それは美意識とは違う本質の話なのである。
切腹が、かように、誤解された美意識のもとに横行し
圧力によって、追い詰められた素浪人が
実質上の圧殺に追い込まれたのだとするなら、
本来の武士道から外れたものとして、
糾弾、酌量の余地は少なからず、あってしかるべきではないか、
すくなくとも、人道的な見方からすれば、
それはこの現代においては、正論である。
テーマにおいても、おそらく
そういった類の倫理が問われているような映画になっている。

しかし、そうしたことが成熟に至らぬ社会で起こるからこそ
映画のような状況が生まれる。
そして、さらにふみこめば、
この素浪人たちは、いかにして、武士道を生き、
そして、落日を迎えたのか、というところにまで踏み込めば
それは、ひとりの人間の思想や尊厳、
生き方そのものとあいかぶる重要な問題を突きつけてくる。

若き日に見たこの『切腹』には
そのような人道的倫理の方に囚われていて
仲代演じる素浪人に、感情移入してみていたものだが
今はもう少し、引いた視線で物事を見ることができる。
その分で言うならば、この映画に正義はない。
何が正しく、間違っている、という絶対はない。
ただそこに、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という
葉隠の精神があるとはいえ、
それが果たして美徳なのかどうか、
根源的問題に立ち返ってみる、という冷徹な視線が宿るのだ。

それは三島由紀夫が起こした楯の会事件も同じことで、
たとえ、その精神が理解できたとしても、
その選択が果たして、正義なのか、愚行なのか、
けして、結論ありきで断じ得ないところである。
ただいえることは、実に、日本人の精神論において、
この生死感をめぐる是非は、いろんなところに波及しており、
今日、あいまいなままがよしとされているのが実情である。
それとも、皮肉にも、武士道においては
曖昧さが優遇されるなどとは
あってならぬことなのだろうか?

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