川島雄三『しとやかな獣』をめぐって

「しとやかな獣」1962 川島雄三 (c)KADOKAWA
「しとやかな獣」1962 川島雄三

『ケダモノ』はただものならぬ映画にこそ映えるもの

川島雄三の映画史におけるポジションの説明は、ちょっと難しい。
もっとも、映画をよく知っているものならば、
わざわざそこに労力をついやすことはないはずである。
必ずしも万人受けする作家、というわけでもないが
かと言って、無視出来るほど柔な映画人ではない。
カンヌで二度も栄光を勝ち得た“世界の今村昌平”は
師と仰ぐ川島の元、助監督として、現場でその才能を磨いていたのだ。

松竹、日活、東宝、大映と、映画会社を渡り歩いた渡り鳥であること、
監督作品51本、乱調ともいうべき多種多彩な作品を残して
45の若さにして、この世を去ってしまったにもかかわらず、
『雁の寺』『青べか物語』といった文芸モノから、
『幕末太陽傳』をはじめとするエンターテイメント、
あるいは、ここで触れるブラックコメディ『しとやかな獣』に至るまで、
どの作品を見ても確かな才能の片鱗が伺える鬼才である。
言ってみれば、これほど名人芸という言葉が似つかわしい才人もなく、
ある種のいかがわしさが、その名人芸をささえているあたりに、
ハマる人はすこぶるハマってしまう、いわばツボをもった映画人の才能は、
日本軽佻派を自称した、我が国の映画黄金期を支えた
稀有な映画作家のひとりとして、改めて再発見されうるべき
可能性を秘めているのは間違いないのである。

それにしても、『しとやかな獣』とは、
実にうまくつけられたタイトルだと思う。
川島雄三の傑作ブラックコメディである本作は、
半世紀以上前の1962年の作品だから、
当時「団地族」と言う言葉があったように、
設定に、それなりに時代感漂うのであるが、
今みるとよくできたコントにしかみえない、
という人もいるかもしれない。
それでもむしろ斬新な切り口として、感動すら覚えるに違いない。

冒頭からいかがわしさがプンプン漂っていて、
最後の最後まで、その気配を程よく保ちながら、
映画的磁力に誘導されるがままに、
見終わってみると、思わずウフフと微笑むことこの上なく、
いやあ、最高だなとつぶやいてしまうだろう。
しばらく、この映画のことで
頭のなかが持ちきりになってしまうだけの十分なインパクト、
網膜的快楽が随所に仕掛けられている。
とにかく、達者な俳優たち揃いにも驚くであろう。

舞台はその団地の密室で、いかにもというような、
密室劇で会話のテンポもよく、
能の音楽の効果も手伝ってか
カメラアングルも斬新なショットが効果的に挟まれ
不思議なリズムを生み出している。
そこで登場人物達はみな、それぞれ
ゲームのようにおしみなく欲望を交わし合う。
当然、勝ち負け、泣き笑いが生じるわけだが、
誰一人、真の幸福など勝ち取れないばかりか
真人間など一人も登場しないのだ。

では、誰が勝ったのか?
筆頭は伊藤洋之助、山岡久乃夫婦であろうか?
こちらはしとやかな、というよりは
したたかなフィクサーたちである。
子供たちを巧みに利用しながら、
甘い汁を吸って、贅沢な生活に浴している。
そもそも娘が小説家の愛人となることを後押しし
そこであてがわれた部屋に家族が同居し暮らしているのだ。
元海軍中佐の父親は、口癖で
二度とあの時代の貧乏には戻りたくない、といい、
それゆえに容赦無く子供たちからさえ搾取できるものを搾取する。
このなんともクセの強い俳優伊藤洋之助の怪演ぶりも必見だ。

一方、昭和のホームドラマによく見かけた
「日本を代表するお母さん」というイメージの女優、
山岡久乃が真逆なスタイルを渋く好演。
そこにひとり、明らかな色物としての、
ピノサク・パブリスタこと川島組常連小沢昭一が、
相変わらず弾けている。
まさに、川島好みのいかがわしさ絶品の
昭和ならではの個性派俳優である。

そこへ、大映から若尾文子が小悪魔よろしく
この映画の中心に居座る。
まさに、しとやかな獣として現れ
しとやかさとケダモノとの境界をめぐって
あの階段をめぐって行き来する。
この空間装置としての階段の使い方も絶妙だ。

とはいえ、あの強烈な個性を発揮した
増村組での若尾文子は、ここには不在で、
女の業というよりは、人間そのものの業や欲望に対するアイロニーを
あの髪型、あの声、あの仕草でもって
男達を翻弄することで浮き彫りにしてゆく様が面白い。
監督、演出によって、かくも気配が一変し、
高度成長期のアンチテーゼとして
なりふり構わず生きてゆく人間のたくましさがあって、
川島のブラックなユーモアとともに炸裂している。

舞台となったのは中央区晴海団地で、入居の条件は、
当時の33歳のサラリーマン平均月収の2倍を必要としたというから、
なるほど、一塊のサラリーマンには高嶺の花であり、
これぞ「憧れの高層団地住い」というわけだ。
そんなシンボル空間をめぐって、
いうなれば、悪(ワル)自慢、ワルを競うかのように
繰り出されるヒロインの悪女ぶりをみてゆこう。

その前に悪女、とはなんなのだろう?
世に悪女と名のつく物語など
世界史を紐解けばいたるところに転がっているが、
欲望、とりわけカネに目が眩んだ悪女譚には
全く不自由しない悪女大国中国では
呂后、武則天や西太后らが
軒並みスケールの大きな悪女っぷりで
その歴史に名を馳せてはいるのを知っている。
それに比べれば、我が国の北条政子や日野富子など可愛いものだ。
せいぜい小悪魔といったところか。

それとも、その中国で21世紀前半
「チャイナドリームの典型的な例」と称される
ベトナム難民からまさに女性実業家に成り上がった
李薇(リー・ウェイ)などを引き合いに出せばいいのだろうか。
中国の政財界トップの間で自由に出入し
汚職高官たちの「共通の愛人」として君臨し
彼女と関係を持った高官たちは数知れず、
次々とこの毒牙にかかり摘発され失脚したが、
彼女の方は取り調べを受ける程度の澄まし顔がトレードマーク。
まさに、『しとやかな獣』の三谷幸枝のモデルのような
男を手玉に取る典型的な女性像である。

彼女の目的は一つ、美貌とセックスを駆使し
権力を逆手にとって利益を入手すること。
しとやかかどうかまでは知らないが、
まさに欲望の権化、獣である。
いやはや女は恐ろしい。
だが、それはある意味本能であり、女の生きる知恵である。
まさに古典的ストラテジーである。
何しろ官僚の95%が愛人を囲っていたと言う国にやってきたのだから、
こうした戦略をとらない手はない。

血の伯爵夫人という異名を持つほどの
残虐性を誇ったエリザベート・バートリーや
サンバルテルミの虐殺で名を轟かせている
権力欲に苛まれたカトリーヌ・ド・メディシスなどは次元が違うが、
どだい悪女という悪女を引っ張ってきたところで
そもそも、女が主導一方的に悪を働いたり、悪をなす、
と言う例がそう多いとは思えない。
たいがいは男たちの欲望の前に、搾取されんとして
彼女たちメス側の本能に忠実に、知恵を研ぎ澄まし
男を手玉に取る術を覚えてきたに過ぎないのだ。

たとえば、有吉佐和子の長編小説
『悪女について』の主人公富小路公子を思いだそう。
その名の通り悪女として描かれるのだが、
その実、彼女が直接悪を為すようなシーンは一切でてこない。
謎の死を遂げる富豪を巡って、二十七人もの男たちの回想をもとに
生前の彼女と言う人となりを暴いてはいくが
回想する人物の話は微妙にかみ合わず
彼女は悪女である、と言うものもいれば
あんな心の綺麗な人はいないという人もいる、といった案配で、
果たしてどこまでが悪女なのか、
そうした線引きが非常に曖昧な、
有吉佐和子一流のレトリックを感じる面白い小説だ。

ここでも、悪女=男食い殺してまで
のし上がってゆくものと言うよりは
結局は騙される方こそが愚かなのだ、
というようなパラドクスに収まるだけの話になっている。
話を『しとやかな獣』に戻そう。
そうしてみてみると、この若尾文子演じる三谷幸枝などは
全く可愛いもので、騙される男たちが哀れに思えるほどである。

しかし、この映画にはちょっとしたオチが待ち構えている。
しかもかなり巧妙で分かりにくい仕掛けがなされているが、
そこは、いかようにも解釈できるだろう。
まさに見る側次第である。
そこは脚本新藤兼人の真骨頂で、あえて詳細説明を省略する。
ぜひ一度、自分の目で確かめていただきたい。

これを正月の興業映画として封切った大映も
また、“しとやかな獣”の罠にはまったとみえ
案の定こけてしまうのだから、
なにからなにまでブラックコメディ尽くしの作品が
『しとやかな獣』なのである。
日本映画が、コメディ下手だとどの口がいうのか、
兎にも角にも傑作である。

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