寺山修司『田園に死す』をめぐって

田園に死す 1974 寺山修司
田園に死す 1974 寺山修司

アングラ教祖による自分探しの修司学

ただの映画の中でさえ、たったひとりの母を殺せない私自身とは一体誰なのか。

田園の真ん中で、
少年時代の自分と今の自分が向き合って将棋を指している。
なんともシュールな光景である。
寺山修司の自伝的映画『田園に死す』の一場面。
ここからがいよいよクライマックスシーンである。
これほど現実離れした光景があるものだろうか?
まさに夢か幻想としか言いようのない世界である。
ところが、なぜだかリアルでグッと迫りくるものがある。
なぜだろうか?

「俺はお前の知っていることならなんでも知っているが、
お前は俺の知ってることは何一つ知らないんだぞ」
20年後の自分が、タイムマシンでやってきたかのように現れ
何も知らない昔の自分にそういう。
当然のごとく、人生の経験値に違いはあっても
所詮、中身は同じ「しんちゃん」なのだ。
ともに逃れようにも逃れきれない存在として、
つまりは母親からの呪縛に喘いでいる。
記憶の絶対値が違うだけだ。
「作り直しの効かない過去なんてどこにもないんだよ」
そう過去の自分を言いくるめて、
縄と草刈り鎌を用意させて母殺しをけしかける。
「一人の男が初めて汽車に乗るためには
その男の母親の死体が必要なのだ」と。

ここで20年前の「しんちゃん」は、
間引きで頭がいかれた女に腕づくで童貞を奪われて、
それどころじゃないのだ。
結局、自らの手でかつての母親を殺さねばならない。
大人のしんちゃんはそう理解する。
戻ってきた家は昔のままだ。
母親は、20年後の息子をいつもと変わりなく受け入れる。
母親にとっては、幾つになっても最愛の息子なのだ。
しかし、今もなお、しんちゃんはこの母親を殺せない。
暖炉の前で昔のように食事をとる二人。
ここでまた、現実離れした光景が唐突に立ち現れる。
壁がばたりと倒れて、周囲は新宿の雑踏へ。
20年前の「しんちゃん」とその他の登場人物たちが
それを取り囲むようにして映画は終わる。
それこそが現実であり、宿命なのだと言わんばかりに目が覚める。
不思議な劇空間が自分自身のことのように
何か恥ずかしい瞬間であるかのように、晒されているのだ。

生年月日、昭和四十九年十二月十日。本籍地、東京都新宿区新宿字 恐山

自分にとっては、初めて『田園に死す』を見たときの混乱を、
この主人公しんちゃん同様に、
勝手な思い込みと書き換えによって
美しく保ち続けてきたのかもしれない。
映画は同時に、個人的な幻想でもあったのか・・・
改めて見ると、実に素直なまでに
そのことが露わになって心揺さぶられるものがある。
しかし、これはまさに幻想などではない。
自分自身に出会う映画、ただそれだけなのだ。

それにしても、どうしてこの映画がこんなにも好きなんだろうか?
好きだとか、惹き込まれるだとか、
主観と客観を行き来しながら、
気がつくと現実に立ち返る自分がいる。
そんな思いを抱えながら、
何度も繰り返してこの映画を見てしまう自分がいる。
まるで迷宮に入り組んだようにやってきて
同じ光景を見てしまうのだ。
夢見るがごとく、近しくて遠い世界。
そうして、次から次へと異様で、
見慣れないものたちに出くわすにも関わらず、
まるで自分の過去に起きた出来事のようにさえ
思えてくるという不思議な映画。

白塗りの少年、そして息子を溺愛する母親。
壊れた柱時計、あるいは縄で縛った柱時計。
ささやき合う黒装束に眼帯の老婆たち。
因習と宿命が渦巻いた風土。
音、歌、声・・・そして短歌。
恐山やイタコのいる荒寥たる山の風景。
父なし児を産んで災いが降りかかると
間引きを強要され子を川へ流し、その後半狂乱になる女。
そして川を下るひな壇。
あるいはカラフルなフィルター越しの見世物団。
春川ますみ演じる空気女は、
自転車の空気入れで膨らんだ服のなかで恍惚としている。
その空気を入れる矮人の夫。
同郷人アナーキーなフォークシンガー三上寛の歌と叫び。
近所の美しい人妻との駆け落ちの誘惑。
少年は母親の元を離れることで
これらの原体験から踏み出そうと決意するのだ。

しかし、この人妻は少年の美化した虚像にすぎず
「母さん、どうか生きかえって、もう一度私を妊娠して下さい。
私はもう、やり直しができないのです。」
そう告白する。
つまり女は、因果を背負った淫売なのであった。
そんな因果に押しつぶされ、
自らの死で持って清算しようとしている。
こうして母なるものの呪縛は
『草迷宮』の中で、母親自身から主人公の少年に向けて
再び発せられる。
「お前をもういちど妊娠してやったんだよ」
結局はそれが寺山修司が終始追い求めたテーマだった。

とてつもなく、難解というわけでもない。
よく見れば見るほどに、何か自分がかつてどこかで
遭遇したような体験、景色、言葉のようにも思えてくる。
そして、この映画は鑑賞を超えて、一つの体験として
自分自身へと深く降りてくる、そんな映画でもある。

途中に、急に降り立つ現実への回帰のシーンがある。
映画の試写室で、20年後に映画作家となって、
少年時代の「しんちゃん」の回想の物語を見ている。
しかし、20年後に郷里を離れて
映画監督となった大人の「しんちゃん」は
それでも過去を一向に清算できてはおらず
全て過去は美化した作り物でしかないのだとして、
原体験を「厚化粧した見世物」にしてしまったことに苦しむのだ。

評論家と思しき人物に、行き詰まった心情を吐露する場面では、
この映画の興味深い種明かしともいうべきテーマについて語りあう。
評論家は「過ぎ去ったことは虚構だと思えばいい」といい、
「人間は記憶から開放されない限り自由になれないのだ」という。
しかし、大人になった「しんちゃん」にすれば、
その「原体験こそが自分の核である」ことから逃れられずにいるのだ。
そこで、評論家にこう尋ねられる。
「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、
君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、
現在の君はいなくなると思うか?」
自らの手で、過去を書き換えることができるのかと。
そのことを確かめるために、
少年「しんちゃん」に出会う事になる。
そしてその時、はっきりと告白するのである。
「私の少年時代は嘘だったのである」と。

こうして現実と虚構の入り混じった物語は
自分探しのテーマへとまっしぐらで回帰する。
家を出ることは、決して心ときめかせるような綺麗事ではなく、
母親の愛情の呪縛から逃れようとする自身への
確認作業だったのかもしれない。

究極の職業とは、自分探し業なり

「職業は寺山修司です」
実にうまいことをいうもんだなと感心する。
そこは言葉の錬金術師といわれるゆえんであるが、
肝心の寺山修司とは一体何者だったのだろうか?
その結論が出ているようで、本当のところよくわからない。
時代を経ても輝きを失わない才能。
今さらながらであるが、この混沌たる今こそ、
もっとそういう論議がなされてもいいはずだと思うのだ。
47年という短いながらも濃密なる生涯を駆け抜けた
そのカリスマ性を誇った昭和の異端児の前に、
勝手気ままに特別な存在を思い起こして
今一度、考えてみたいと思う。

出身地青森の風土にある、どこか呪詛的、
神話的な空気感に身をまかせるように促されるマジックで
70年代そのものがまるで
一つの実験空間のような気配を伴って返ってくる。
「前衛」「アングラ」「異端」などという言葉が
常につきまとうのはしょうがないのだが、
歌謡曲の歌詞提供者、あるいは予想家はもとより
馬主にまで至る大の競馬愛好家、
はたまたボクシングにも造詣が深い、
といった大衆性をも含んだ
その多面的肩書きに戸惑わされることはあれど 
主に文芸を中心とした、
あくまでもきまぐれで繊細な感受性に委ねられるタイプの表現者として、
現実と虚構が入り混じる独自の世界のからくり劇場へと
人を手招きする魔術師であり、
夢なのか、幻なのか、いたこの語りか、はたまた狂気か?
すなわち寺山ワールドの座長、
としかいいようないそのポジションに 
ぽつねんとはにかんだような風采で座っているのが、
どうやら寺山修司、その人なのである。

十代の頃から歌人として歌を詠み始めた寺山は
当然のように、既存短歌に対するアンチテーゼから
それを表現へのステップとして
湧き上がる好奇心をみたすように表現にのめりこんでいった人である。
なかでもフランスの古典的名作
マルセル・カルネ『天井桟敷の人々』に触発され
「天井桟敷」という劇団をかまえ、
アングラ演劇人として、その名を駆せるや
世界に発信してゆくことになってから半世紀も過ぎてしまった。
それはホドロフスキーの世界観とも共通する。

確かに、表現のもつ魔術的な魅力への評価は高い。
しかし、今その世界を改めて見せられると
一つの普遍的テーマが浮かび上がってくる。
それは自己とは何か?
という誰もが避けて通れない、
まさに原風景回帰をたどる手段としての表現であることを再確認して
新たにまた寺山修司に親近感を覚えるのだ。

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